日記Z 2019年2月

2月23日(土)

やれやれ



ようやく休み。朝は爆睡、昼過ぎから掃除と洗濯、少しずつ動き出す。


正月休みの頃から、ちびちびと音楽関連の本を読みつないでいるのだけど、ビートルズの『ラバー・ソウル』というアルバムの評価が皆一様に高いので聴いている。




Norwegian Wood (This Bird Has Flown)



よい ♪



大学に入ったころ、ちょっとだけサークルに入っていた時期があって、そこの先輩だったか、「ベスト盤なんか聴いてたらダメだよ。ちゃんとアルバムを聴かなきゃ」って言われた。その時に聴いていたのはスティングか誰かのベスト盤だったと思うけど、「なるほど、確かにベスト盤を聴いてたらモグリっぽいけど、アルバムを聴いてたら音楽通って感じでカッコいい!」ってことでベスト盤なんか買わないでアルバムを買うようになったのだけど、サビでぐっとくる曲以外の曲をだらだら聴くのはなかなかつらいものがあって、というか今でもそうで、アルバムを最初から最後まで聴くというのは結局習慣化しなかった。


それがなんだか、この「ラバー・ソウル」というアルバムは確かに最初から最後までちゃんと聴ける。これといった曲がある訳ではないけれど、バリエーションに富んだ楽曲で構成されていて飽きないし、自然に聴き流してうとうとしているうちに気がついたら終わってるという感じ。


ふ〜ん、音楽ってこうやって聴けるんだー



さらに本を読み進めると興味深いのは、この頃のビートルズ、『ラバー・ソウル』(1965)『レヴォルバー』(1966)『サージェント・ペパーズ』(1967)を続けてリリースした時代のビートルズが、当時アメリカ西海岸で勃興しつつあったカルチャーと通じていたということだ。



1950年代から1960年代初頭にかけて、アメリカ経済の堅調さの影響下、世界的な好景気が到来し、それが中産階級層の増大をもたらしたが、反面生活様式の画一化が促進されていった。そんななかで育ったベビーブーマーの一部は、その画一的なライフスタイルを嫌い、体制への反抗姿勢を行動に移し始めていた。それらのムーヴメントの根底にあったのは、ベトナム戦争の泥沼化への危機感だった。

1963年、ケネディ大統領時代にベトナムに介入したアメリカは、1965年ジョンソン大統領時代に本格的に軍事介入したが、戦争の長期化による膨大な戦費がアメリカに赤字財政をもたらし、インフレがアメリカの経済環境を悪化させていた。さらにメディアが、この悲惨な戦争の様子を家庭に放送したことで、アメリカ国内でのベトナム戦争反対運動が巻き起こり、多くの若者が徴兵を拒否してアメリカから出国し、カナダ、メキシコ、スウェーデンなどへ逃亡し始めた。同時に、アメリカ国内を逃げ回った若者も多かった。こうした社会不安を背景に、ヒッピーと呼ばれるベビーブーマーの若者たちが急増していった。

ヒッピーたちはサンフランシスコを拠点として、アメリカン・ドリームに疑問をもち、社会からドロップアウトすることで結束した。その思想の根本にあったのは、ビート・ジェネレーションから受け継いだ「ラヴ&ピース」を合い言葉としてドラッグとフリーセックスを容認した平和主義であった。やがてヒッピーのムーヴメントは、人種差別問題、女性蔑視問題、ゲイ問題まで包括した大きな潮流として、アメリカはおろか、ヨーロッパや日本にまで広がっていく。彼らの多くが花柄の衣装を好んで身に付けていたことから、そのムーヴメントはフラワー・パワーとも呼ばれた。そして彼らがそのカウンター・カルチャーの共通言語としたのがロック・ミュージックであった。

このムーヴメントが最高潮となった1967年、ヒッピーたちによる反体制文化の象徴として君臨していたのが、ビートルズ
『SGT.Pepper's Lonely Hearts Club Band』だったのだ。

(根木正孝『ビートルズ言論』水曜社より)



僕がイメージするアメリカ西海岸というのは、1980年代以降の西海岸で、太陽がサンサンと照りつけるビーチやビバリーヒルズ、ロサンゼルスオリンピックやハリウッド映画に代表される負の要素をまったく感じさせない、セレブリティ溢れる圧倒的に華やかでオシャレなアメリカだ。




1950年代から1960年代のアメリカ西海岸のカルチャーはじぶんで勉強するまで知らなかった。また1980年代のアメリカ西海岸のイメージづくりとその後の日本のバブルは連動しているし、一貫した経済政策に基づいて仕掛けられたものだから、「美しい花には棘がある」というように、華やかな世界を真に受けるのではなく、一歩引いて冷静に観るほうがいいね。




ビートルズアメリカ西海岸カルチャーをつないで、彼らの作品を考えると俄然面白くなってくるのだけど、いきなり躓くというか、「あれ?」という問題に出くわす。冒頭で紹介した『ラヴァー・ソウル』に収録されている「ノルウェイの森」という曲は聴いたらすぐわかるけれど、これ、すごくインドっぽい。



ビートルズアメリカ西海岸とインド



まったく訳がわからない。


イギリス人から見たアメリカ西海岸と、イギリス人から見たインドというのは、通じるものがあるのだろうか? このあたりは、日本人の地理的感覚からは一番理解しづらい。






イギリス人から見たインドとかけて、アメリカ西海岸と解く。その心は?




The Darjeeling Limited Opening Scene



この謎かけですぐに思い浮かんだのは、ウェス・アンダーソンの『ダージリン急行』だ。ウェス・アンダーソンの作品はどれもコミカルでかわいらしく、そして何よりも絵的な色調が美しい。この作品もそうで、インドのカオスな感じがストーリー的にも画面的にもうまく表現されている。欧米人から見たインドに、西海岸的なポップな明るさがうまく融合された傑作だと思う。


その一方で、インドの負の部分を前面に押し出したり、闇の部分にアクセスすることはなく、インドの汚らしい部分は封印されている。そういった意味でも、彼が音楽にビートルズではなく、キンクスを選んだのもなんとなくうなづける。なぜなら、ビートルズの音楽には、ウェス・アンダーソンが求めていない、どこか鬱屈とした空気が漂ってしまっているから。


ビートルズウェス・アンダーソンはつながらない。






気持ちをあらためて、



ノルウェイの森』からの『ノルウェイの森





この小説も例によって読んだことは覚えているけれど、内容はほとんど覚えていない。主人公がトーマス・マンの『魔の山』を読んでいたことと、その恋人がサナトリウムに入っていたということくらいしか記憶にない。


でも、あらためて読んでみると作中にサナトリウムとは一言も書かれていないし、それに『魔の山』よりもどちらかといえば、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を読んでいるシーンのほうが多く、主人公も『グレート・ギャツビー』推しで、その想いを存分に語っているので、こっちのほうを記憶していてもよさそうなものだ。なのに、なぜ数少ない『魔の山』を読んでいるシーンのほうを覚えていたのだろうか。ま、当時はそもそもフィッツジェラルドを知らなかったので記憶すらできなかったのであろう。


当時はまだ小説を読む習慣がほとんどなくて、『STUDIO VOICE』や『SWITCH』といったカルチャー雑誌で紹介されている本を「今はこれがイケている!」と思い込んで買って、読んだふりをする程度だった。だから読む力がなくて、三島由紀夫は全然読めなかったけれど、村上春樹の『国境の南、太陽の西』を読んでみたら読めて、それでうれしくなって、その勢いで『ノルウェイの森』を読んだのだったと思う。


当時は当時として、いま改めて読んでみると、これが意外に面白い。ビートルズの曲を聴いていて感じる、あれだけヒットしたわりにはどこかすっきりとしない鬱屈とした雰囲気が、村上春樹の作品からも感じられる。また村上春樹は、はぐらかしてなかなか本音を語らないという印象があるのだけど、『ノルウェイの森』では、けっこうはっきりと自分の想いを綴っている。


夏休みのあいだに大学が機動隊の出動を要請し、機動隊はバリケードを叩きつぶし、中に籠っていた学生を全員逮捕した。その当時はどこの大学でも同じようなことをやっていたし、とくに珍しい出来事ではなかった。大学は解体なんてしなかった。大学には大量の資本が投下されているし、そんなものが学生が暴れたくらいで「はい、そうですか」とおとなしく解体されるわけがないのだ。そして大学をバリケード封鎖した連中も本当に大学を解体したいなんて思っていたわけではなかった。彼らは大学という機構のイニシアチブの変更を求めていただけだったし、僕にとってはイニシアチブがどうなるかなんてまったくどうでもいいことだった。だからストが叩きつぶされたところで、とくに何の感慨も持たなかった。

僕は九月になって大学が殆ど廃墟と化していることを期待して行ってみたのだが、大学はまったくの無傷だった。図書館の本も掠奪されることなく、教授室も破壊しつくされることはなく、学生課の建物も焼け落ちてはいなかった。あいつら一体何してたんだと僕は愕然として思った。

ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、いちばん最初に出席してきたのはストを指導した立場にある連中だった。彼らは何事もなかったように教室に出てきてノートをとり、名前を呼ばれると返事をした。これはどうも変な話だった。何故ならスト決議はまだ有効だったし、誰もスト終結を宣言していなかったからだ。大学が機動隊を導入してバリケードを破壊しただけのことで、原理的にはストはまだ継続しているのだ。そして彼らはスト決議のときには言いたいだけ元気なことを言って、ストに反対する(あるいは疑念を表明する)学生を罵倒し、あるいは吊しあげたのだ。僕は彼らのところに行って、どうしてストをつづけないで講義に出てくるのか、と訊いてみた。彼らには答えられなかった。答えられるわけがないのだ。彼らは出席不足で単位を落とすのが怖いのだ。そんな連中が大学解体を叫んでいたのかと思うとおかしくて仕方なかった。そんな下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ。


この想いは僕も同感で、ぼくは彼らの子供の世代だから1968年前後のことは知らないし、親も当時のことを教えてくれなかったので、自分で調べてあとからわかったのだけど、僕が浪人生だったころの予備校の先生や、大学生だったころの教授陣に学生運動をやっていたらしい人がけっこういた。


なかには、山本義隆さんのように素晴らしい人もいたけれど、彼の場合は「なんでこんなに頭のいい人が予備校なんかで教えているのだろう? 大学でもっとバリバリ研究すればいいのに」と思えて悲しくなったのだけど、そういう人はごくわずかで、大概がくだらない連中だった。「講義を欠席したら即落第」とか厳しく取り締まる先生にかぎって、自分が学生のころは授業をボイコットしていたり、あるいは逆にまったくやる気がなく、つまらない講義をダラダラして、学生から「あの先生、はやくやめたらいいのに」と陰口を叩かれるような人たちだった。


1968年と、僕も経験した1995年前後というのは、よのなか全体がおかしかったように思う。


そのおかしな社会に同化するのか? 抗うのか? 距離をとるのか?


そして、どう生きてゆくのかが問われ、ビートルズ村上春樹が共鳴して表明していたのが、アメリカ西海岸でヒッピー・カルチャーを巻き起こした若者たちが、ビートニクから受け継いだ「ラヴ&ピース」を合言葉とし、ドラッグ(酒)とフリーセックスを容認した、平和主義だったのか。


やれやれ




それで、今までほとんど読んでいなかったビートニクの作家(ビート・ジェネレーション)を読んでみようということで、一番評価の高いバロウズの『裸のランチ』を読んでいるのだけど、正直びっくりしている。確かに社会からドロップアウトしていて、ドラッグ漬けでヤバくて、人間的にもう終わっているのだけど、なんというか、すごく頑張ってる感があって、「ドラッグ中毒を極めてやるぞ! 」という感じで、僕が想像していたのと真逆だった。ドロップアウトの仕方がすごく西洋的というか、


ビートニクの作家を一言でいえば、マッチョ!


対して


村上春樹を一言でいえば、ふにゃふにゃ


春樹のほうもお酒はよく飲むし、女の子とセックスばかりしていて、おちんちんは大きいって書いているのだけど、もうね、やってることも、言ってることも、ふにゃふにゃ


どっちがいいという訳ではなく、どちらも共感しないのだけど、僕がビートニクと聞いてイメージしていたのは、中島らものようなグダグダの人で、それで言えば、まだ村上春樹のほうが近いかも。





村上春樹の『ノルウェイの森』は、ビートルズの『ノルウェイの森』をモチーフとして書かれており、作中でも「ノルウェイの森」やビートルズのほかの曲がしばしば流れる。アメリカ西海岸=ヒッピーカルチャー=ビートニク=ラヴ&ピース》という観点では両者は密接につながっていて、村上春樹の『ノルウェイの森』はよくできた作品だと思う。



ただ、ひとつ物足りない点があって、それはビートルズの『ノルウェイの森』に感じられるインド的なるものの探究がほとんど見られないということだ。


ビートルズの『ノルウェイの森』をもう少し掘り下げてみたいのだけど、この曲と通じるのは、先ほど紹介したキンクスの一連の楽曲だと言えなくもないけれど、両者は背負っている使命が異なるので、やはり繋がらない。ビートルズの『ノルウェイの森』と繋がるのは、同じくビートルズのこの曲だと思う。



Across The Universe (Remastered 2009)



アメリカ西海岸のヒッピーカルチャーと呼応したニューエイジ運動


ドラッグの幻覚症状→サイケデリックマントラ→インド的なるもの


というライン。こっちのほうをもう少し掘り下げてみてもいいかなって思う。





だだ、インド的なるものの探究は時間がかかるので、ひとまず置いといて、もういちど村上春樹の『ノルウェイの森』に戻る。この作品で気になるのは、緑とレイコさんというふたりの女性だ。


主人公の男はふにゃふにゃでまったく希望を感じないし、村上春樹じしんもそれほど重きを置いてないように思うのだけど、登場する女性、特に新たな恋人になるであろう緑と、恋人の直子と一緒にいる彼らより年上のレイコさんという女性の描きっぷりには彼の思い入れがあるように感じられる。まず、緑。


「あなた『資本論』って読んだことある?」と緑が訊いた。

「あるよ。もちろん全部は読んでないけど。他の大抵の人と同じように」

「理解できた?」

「理解できるところもあったし、できないところもあった。『資本論』を正確に読むにはそうするための思考システムの習得が必要なんだよ。もちろん総体としてのマルクシズムはだいたい理解できていると思うけれど」

「その手の本をあまり読んだことのない大学の新入生が『資本論』読んですっと理解できると思う?」

「まず無理じゃないかな、そりゃ」と僕は言った。

「あのね、私、大学に入ったときフォークの関係のクラブに入ったの。唄を唄いたかったから。それがひどいインチキな奴らの揃っているところでね、今思いだしてもゾッとするわよ。そこに入るとね、まずマルクスを読ませられるの。何ページから何ページまで読んでこいってね。フォーク・ソングとは社会とラディカルにかかわりあわねばならぬものであって・・・・なんて演説があってね。で、まあ仕方ないから私一所懸命マルクス読んだわよ、家に帰って。でも何がなんだか全然わかんないの、仮定法以上に。三ページで放りだしちゃったわ。それで次の週のミーティングで、読んだけど何もわかりませんでした、ハイって言ったの。そしたらそれ以来馬鹿扱いよ。問題意識がないだの、社会性に欠けるだのね。冗談じゃないわよ。私はただ文章が理解できなかったって言っただけなのに。そんなのひどいと思わない?」

「ふむ」と僕は言った。

「ディスカッションってのがまたひどくてっね。みんなわかったような顔してむずかしい言葉使ってるのよ。それで私わかんないからそのたびに質問したの。『その帝国主義的搾取って何のことですか? 東インド会社と何か関係あるんですか?』とか、『産学協同体粉砕って大学を出て会社に就職しちゃいけないってことですか?』とかね。でも誰も説明してくれなかったわ。それどころか真剣に怒るの。そういうのって信じられる?」

「信じられる」

「そんなことわからないでどうするんだよ、何考えて生きてるんだお前? これでおしまいよ。そんなのないわよ。そりゃ私そんなに頭良くないわよ。庶民よ。でも世の中を支えてるのは庶民だし、搾取されてるのは庶民じゃない。庶民にわからない言葉ふりまわして何が革命よ、何が社会変革よ! 私だってね、世の中良くしたいと思うわよ。もし誰かが本当に搾取されているのならそれはやめさせなくちゃいけないと思うわよ。だからこそ質問するわけじゃない。そうでしょ?」

「そうだね」

「そのとき思ったわ、私。こいつらみんなインチキだって。適当に偉そうな言葉ふりまわしていい気分になって、新入生の女の子を感心させて、スカートの中に手をつっこむことしか考えてないのよ、あの人たち。そして四年生になったら髪の毛を短くして三菱商事だのTBSだのIBMだの富士銀行だのにさっさと就職して、マルクスなんて読んだこともないかわいい奥さんもらって子供にいやみったらしい凝った名前つけるのよ。何が産学共同体粉砕よ。おかしくって涙が出てくるわよ。他の新入生だってひどいわよ。みんな何もわかってないのにわかったような顔してへらへらしてるんだもの。そしてあとで私に言うのよ。あなた馬鹿ねえ、わかんなくたってハイハイそうですねって言ってりゃいいのよって。ねえ、もっと頭に来たことあるんだけど聞いてくれる?」

「聞くよ」

「ある日私たち夜中に政治集会に出ることになって、女の子たちはみんな一人二十個ずつの夜食用のおにぎり作って持ってくることって言われたの。冗談じゃないわよ、そんなの完全な性差別じゃない。でもまあいつも波風立てるのもどうかと思うから私何も言わずにちゃんとおにぎり二十個作っていったわよ。梅干し入れて海苔まいて。そうしたらあとでなんて言われたと思う? 小林のおにぎりは中に梅干ししか入ってなかった、おかずもついてなかったって言うのよ。他の女の子のは中に鮭やらタラコが入っていたし、玉子焼なんかがついてたりしたんですって。もうアホらしくて声も出なかったわね。革命云々を論じている連中がなんで夜食のおにぎりのことくらいで騒ぎまわらなくちゃならないのよ、いちいち。海苔がまいてあって中に梅干しが入ってりゃ上等じゃないの。インドの子供のこと考えてごらんなさいよ」

僕は笑った。「それでそのクラブはどうしたの?」

「六月にやめたわよ、あんまり頭に来たんで」と緑は言った。「でもこの大学の連中は殆どインチキよ。みんな自分が何かをわかってないことを人に知られるのが怖くってしようがなくてビクビクして暮してるのよ。それでみんな同じような本を読んで、みんな同じような言葉ふりまわして、ジョン・コルトレーン聴いたりパゾリーニの映画見たりして感動してるのよ。そういうのが革命なの?」

「さあどうかな。僕は実際に革命を目にしたわけじゃないからなんとも言えないよね」

「こういうのが革命なら、私革命なんていらないわ。私きっとおにぎりに梅干ししか入れなかったっていう理由で銃殺されちゃうもの。あなただってきっと銃殺されちゃうわよ。仮定法をきちんと理解してるというような理由で」

「ありうる」と僕は言った。

「ねえ、私にはわかっているのよ。私は庶民だから。革命が起きようが起きまいが、庶民というのはロクでもないところでぼちぼちと生きていくしかないんだっていうことが。革命が何よ? そんなの役所の名前が変るだけじゃない。でもあの人たちにはそういうのが何もわかってないのよ。あの下らない言葉ふりまわしている人たちには。あなた税務署員って見たことある?」

「ないな」

「私、何度も見たわよ。家の中にずかずか入ってきて威張るの。何、この帳簿? おたくいい加減な商売やってるねえ。これ本当に経費なの? 領収書見せなさいよ、領収書、なんてね。私たち隅の方にこそっといて、ごはんどきになると特上のお寿司の出前とるの。でもね、うちのお父さんは税金ごまかしたことなんて一度もないのよ。本当よ。あの人そういう人なのよ、昔気質で。それなのに税務署員ってねちねちねちねち文句つけるのよね。収入ちょっと少なすぎるんじゃないの、これって。冗談じゃないわよ。収入が少ないのはもうかってないからでしょうが。そういうの聞いてると私悔しくってね。もっとお金持のところ行ってそういうのやんなさいよってどなりつけたくなってくるのよ。ねえ、もし革命が起ったら税務署員の態度って変ると思う?」

「きわめて疑わしいね」

「じゃあ私、革命なんて信じないわ。私は愛情しか信じないわ」

「ピース」と僕は言った。

「ピース」と緑も言った。



このシーンはすごく好きだし、「緑、よくぞ 言った!」って思う。



次にもう一人キーになる人物がいて、それがレイコさんなのだけど、二十歳前後の主人公たちよりもずっと年上の三十代後半で、人生経験が豊富なぶん、どこかゆったりとした余裕がある。そして音楽に長けていて、作中でよくギターを弾く。


レイコさんはビートルズに移り、「ノルウェイの森」を弾き、「イエスタデイ」を弾き、「ミシェル」を弾き、「サムシング」を弾き、「ヒア・カムズ・ザ・サン」を唄いながら弾き、「フール・オン・ザ・ヒル」を弾いた。僕はマッチ棒を七本並べた。

「七曲」とレイコさんは言ってワインをすすり、煙草をふかした。「この人たちはたしかに人生の哀しみとか優しさとかいうものをよく知っているわね」

この人たちというのはもちろんジョン・レノンポール・マッカートニー、それにジョージ・ハリソンのことだった。

彼女は一息ついて煙草を消してからまたギターをとって「ペニー・レイン」を弾き、「ブラック・バード」を弾き、「ジュリア」を弾き、「六十四になったら」を弾き、「ノーホエア・マン」を弾き、「アンド・アイ・ラブ・ハー」を弾き、「ヘイ・ジュード」を弾いた。

「これで何曲になった?」

「十四曲」と僕は言った。

「ふう」と彼女はため息をついた。「あたな一曲くらい何か弾けないの?」

「下手ですよ」

「下手でいいのよ」

僕は自分のギターを持ってきて「アップ・オン・ザ・ルーフ」をたどたどしくではあるけれど弾いた。レイコさんはそのあいだ一服してゆっくり煙草を吸い、ワインをすすっていた。僕が弾き終わると彼女はぱちぱちと拍手をした。

それからレイコさんはギター用に編曲されたラヴェルの「死せる王女のためのパヴァーヌ」とドビッシーの「月の光」を丁寧に綺麗に弾いた。「この二曲は直子が死んだあとでマスターしたのよ」とレイコさんは言った。「あの子の音楽の好みは最後までセンチメンタリズムという地平をはなれなかったわね」

そして彼女はバカラックを何曲か演奏した。「クロース・トゥ・ユー」「雨に濡れても」「ウォーク・オン・バイ」「ウェディングベル・ブルーズ」。

「二十曲」と僕は言った。

「私ってまるで人間ジューク・ボックスみたいだわ」とレイコさんは楽しそうに言った。

「音大のときの先生がこんなの見たらひっくりかえっちゃうわよねえ」

彼女はワインをすすり、煙草をふかしながら次から次へと知っている曲を弾いていった。ボサノヴァを十曲近く弾き、ロジャース=ハートやガーシュインの曲を弾き、ボブ・ディランやらレイ・チャールズやらキャロル・キングやらビーチボーイズやらスティービー・ワンダーやら「上を向いて歩こう」やら「ブルー・ベルベット」やら「グリーン・フィールズ」やら、もうとにかくありとあらゆる曲を弾いた。ときどき目を閉じたり軽く首を振ったり、メロディーにあわせてハミングしたりした。

ワインがなくなると、我々はウィスキーを飲んだ。僕は庭のグラスの中のワインを灯籠の上からかけ、そのあとにウィスキーを注いだ。

「今これで何曲かしら?」

「四十八」と僕は言った。

レイコさんは四十九曲目に「エリナ・リグビー」を弾き、五十曲めにもう一度「ノルウェイの森」を弾いた。五十曲弾いてしまうとレイコさんは手を休め、ウィスキーを飲んだ。「これくらいやれば十分じゃないかしら?」

「十分です」と僕は言った。「たいしたもんです」

「いい、ワタナベ君、もう淋しいお葬式のことはきれいさっぱり忘れなさい」とレイコさんは僕の目をじっと見て言った。「このお葬式のことだけを覚えていなさい。素敵だったでしょ?」

僕は肯いた。

「おまけ」とレイコさんは言った。そして五十一曲めにいつものバッハのフーガを弾いた。

「ねえ、ワタナベ君、私とあれやろうよ」と弾き終わったあとでレイコさんが小さな声で言った。




緑やレイコさんのようなフランクな女性はいいなって思うのだけど、村上春樹が書いた彼女たちを何度読んでもなかなかイメージがわいてこなかった。



でも、例えば、あの子をイメージしてみたら、世界がパッとひらけたのであった。





宇多田光 Utata Hikaru - Across The Universe. Encore 01. WildLife. Live 2010 YokoHama Arena. December 8-9






2月17日(日)

《祝》再結成



遊びでもないのに

日曜日になんで終電やねん

向かえの席に座ったさぁ

もち肌の女の子


例えば、あの子は透明少女




Number Girl - 透明少女 (Live from RSR FES 1999)




2月10日(日)

僕らの力で世界があと何回救えたか






いまは事業部が変わって開発チームにいる。開発業務はゴールがあってないようなもので、やろうと思えばいくらでもやることがあるので、毎日夜遅くまで作業が続く。だから、だんだん朝が起きられなくなってきて、今はふつうの時間に出勤しているのだけど、以前、工場に製造指示を出すポジションにいたときは朝7時から働いていた。


そのとき乗っていたのが、5:54発の電車なのだけど、その電車でよく乗り合わせる舞台女優さんがいて、プライベートだから気づかないふりをしていたのだけど、いつもえらいなって思いつつ、陰ながら応援していた。


マライヤ・キャリーが売れないころにウエイトレスのアルバイトをやっていたという話を聞いたことがあるけれど、あれはなんか違うような気がする。早朝の仕事をして、夕方からの稽古をこなしつつ、俳優業を続けているという人を、僕は何人も知っている。彼、彼女らは別に有名人になりたいと思って演劇をやっている訳ではなく、演劇が身体に染み付いていて、表現する喜びを知っているからこそ続けているのだろう。


そういう彼、彼女らを応援していると言いつつ、忙しくてぜんぜん観劇できていないのだけど、今日なんとか休みを取れたので、その女優さんが出演している舞台を一年ぶりくらいに観劇してきた。





ぐりぐりのSF作品なのだけど、終盤までSFだとまったく気づかなかった。田舎町の高校を卒業した仲間が、数年ぶりに故郷に戻ってきて、そこで繰り広げられる....


サイエンスでもフィクションでもなく、ほとんどノンフィクションと思って観ていいような序盤の展開で、久しぶりに集まった仲間を演じる俳優たちが青春時代のにおいをプンプン醸し出して、観客をどんどん引き込んでいくものだから、こちらもすっかりその気になって、「こいつら一体なにをしでかすんだろう?」とワクワクした気持ちで観ていたのだけど、途中からだんだん雲行きが怪しくなってきて...


「えっ! これ、けっこうヤバイ話じゃねー」(汗)


「そっかー! これ、完全にSFじゃん! 無線部なんてマニアックな人たちが出てきて、なんかいかにもメカメカしい機材をいじくり出した時点で気づくべきだった!」


という感じで、してやられました。。。



とは言っても、劇場を後にしてから冷静に考えたのだけど、"青春ドラマ""SF"って別に相容れないものじゃないよなー



例えば、この作品を観ていて『スタンド・バイ・ミー』を無性にみたくなった。




Stand By Me • Ben E. King



スタンド・バイ・ミー』にSFの要素はないけれど、あの作品の原作者はスティーブン・キングなんだよなー。そう思うと『スタンド・バイ・ミー』と『IT』は繋がっているし、『IT』はホラーというより、ほとんどSFだし、あれは『スタンド・バイ・ミー』以上に青春ドラマだよね。仲間が大人になっても誓いを貫き通せるかっていう。




Stephen King's IT (1990) - Georgie



ひゃやややーーー


こわ 汗....



なんか、今日観劇した『僕らの力で世界があと何回救えたか』ともつながっているような気がする。



『僕らの力で世界があと何回救えたか』の作品自体は怖くて難解だったけれど、俳優陣のキャスティングはすごくよかったなー


メトロポリスの首長を彷彿させる市長役に松永玲子さんを起用したり、大久保祥太郎、斉藤マッチュ、松澤傑の無線部3人組はキャラ立ちしていて、すっごくよかった。



俳優たちにパワーをもらいました!



ありがとうございました。



オレもがんばろー






2月3日(日)

命がけの跳躍


 

 

きのうは7時に仕事を終わらせてランニングするつもりが結局8時すぎまでかかってしまったのでランニングできず。今日はゴルフの朝練とジムのレッスンに参加したけれど、今週は夜ラーメン1回と晩酌1回やったからチャラ。先週の借金を返済することはできなかった。来週がんばろう。

 


 

プロ野球のキャンプがスタートして、今年もいよいよ動きだしたという気持ちだ。我がタイガースも新キャプテン・糸原健斗選手がハッスルしているようで、たのもしい!

 

 

彼は昨年、若手で唯一レギュラーの座を掴んだ男だ。そんな彼にむかって言うのは失礼かもしれないが、昨年のキャンプ前は、彼ではなく中谷選手や高山選手がどこまでやれるかに注目していたのだった。もちろん糸原選手もそこそこやるだろうとは思っていたが、まさかシーズンを通じてレギュラーでやってのけるとは、正直思っていなかった。

 

糸原選手にいったい何がおこったのか?


タイガースファンのあいだでは有名な話なのだけど、彼は一昨年のこの一打で本当のプロ野球選手になったと言われている。



糸原健斗(阪神)「サヨナラヒットで金本監督に思いっきり抱きしめられる」2017.07.09 阪神対巨人


この一撃以来、糸原選手はなにか吹っ切れたように打ちまくった。自信に満ち溢れ、気持ちが前面に出るようになった。何事にも積極的に取り組むようになり、まさに“オレがヤル”という姿そのものになった。結果として昨年レギュラーの座を掴んだし、この変化が矢野監督をはじめ、チームみんなに伝わり、新キャプテンに指名されることになった。


実は、糸原選手を変えたこの一打については、野球事情に詳しい菊地選手も指摘しているとおり伏線がある。



そう、2010年の夏の甲子園仙台育英に逆転負けを喫した開星の、大飛球を放った最後のバッターが糸原健斗選手なのだ。



開星 仙台育英


これを僕は、プロ野球における


命がけの跳躍


と呼んでいる。


糸原選手は、仙台育英・三瓶選手の“命がけの跳躍”によって阻止された夢を7年越しで奪い返し、今度は彼が飛躍したのである。そして彼は名実ともにプロ野球選手となった。


プロ野球選手にいったい誰がなれるのか?


これは本当にわからない。確かに松井秀喜選手や大谷翔平選手のようにプロ入り前から飛び抜けた逸材というのがいるにはいるけれども、それは例外中の例外。プロのドラフトにかかるような選手はみな一様に才能があり、みなプロで通用すると思って入団してくるのだけど、プロの一本目で活躍できる選手はほんの一握りしかいない。


例えば、坂本勇人選手は今ではジャイアンツのショートを当たり前のように守っているけれども、高校時代の彼をみてもジャイアンツで10年以上もレギュラーを張って活躍する選手になるとは思わなかったよ。あるいは早稲田大学時代の鳥谷敬選手はプロでもそこそこやるだろうとは思って観ていたけれど、同期の青木宣親選手がメジャーリーガーになるどころか、プロで通用するとは全然思わなかった。誰がプロ野球選手になれるかは本当にわからないんだよ。


さて、プロ野球選手とは何かについて、マルクスっぽい言い回しをしたから、もう少し踏み込んで言っておくと、『資本論』における商品の観点にならって、プロ野球選手を定義すると次のようになる。


プロ野球選手は、プロ野球選手となる運動としてだけあり、プロ野球選手へと生成してゆく途上にのみ存在する。(※1)


プロ野球選手という事物は存在しない。どんなに素晴らしいヒットを打ったとしても、どんなに美しいサヨナラアーチを描いたとしても、次の日になれば、またふつうに試合が行われる。その試合でヒットを打てる保証はない。運よくヒットが打てるかもしれないし、打てないかもしれない。4タコなんぞ記録しようものなら一転、ファンからブーイングの嵐だ。プロ野球選手とはその運動、日々の営みにおいてしか存在しない。ちなみに糸原選手だって、キャプテンになったからといってレギュラーが確約された訳ではまったくない。


プロスポーツの世界は厳しい。


だからこそ、我々は仕事とまったく関係のない野球やゴルフの試合を観にいき、選手の一挙手一投足を固唾をのんで見守り、勝敗に一喜一憂する。そして、彼らの頑張りが我々の励みとなるのである。


糸原キャプテンがんばれ!


おれも彼に負けないようにがんばろー



※1 熊野純彦マルクス 資本論の哲学』(岩波新書)p.9を参照した.


 

 

 


 

 

 

 

 2019年1月日記Z

 

 

 

 阪根Jr.タイガース

 

 

 

 阪根タイガース