日記Z 2019年1月

1月27日(日)

この人、だれ?



今週は休みがなかったので身動きとれず。ランニングもジムのレッスンにも参加できなかったのに、夜ラーメンを2回もしちゃったから、からだ的には


借金2!


昨年のタイガースみたいなことにならんように、早めに返済しないと....


そんな感じなんで、今週は日記に書けることがないから、さっさっと書くのをやめて《キングダム53巻》を読みたいのだけど、一つだけ書くことがあったというか、書いたことがあったというか、ずっと前に書いた演劇の感想をその時に出演していた俳優さんが最近読んでくれたようで、


いいね!


をポチってくれた。



最近はなかなかできてないけれど、観劇した作品の感想をできる限り書くようにしていて、それは作品をつくりあげる人々に対するリスペクトの気持ちからで、僕も創作活動をしていた時期があるから、彼らの苦労はよくわかるし、特に演劇は1ヶ月ちかくも稽古をするにもかかわらず、1〜2週間公演をして、舞台をバラシてしまったら、跡形もなくきれいさっぱりなくなってしまう。

それだと、せっかくいい作品を創り上げたとしても、どこが良かったのか悪かったのかもよくわからないし、次につながらないのではないか? それはもったいない!という想いで、演劇の感想を書いている。

だから、創り手に感想を読んでもらえると、書いたほうもすごくうれしい。




しかしながら、じぶんの書いた感想を久しぶりに読むと、じぶんで言うのもなんだが、


「この人、言ってることはテキトーだけど、けっこういろいろ観て、いろんな本よんでるなー」


って感心する。

確かに、観たことや読んだことは覚えているのだけど、内容はもうほとんど覚えてないから、今よむと別人が書いたようにしか思えない。


「こいつ、ほんとぺちゃくちゃよく話すよなー」

「誰だよ、こいつ?」


最近は、機械とにらめっこして1日が終わってしまうので、尚更そう思う。




ところで、平成が終わるんだけ? いま何年だっけ?


2019年かー


「えっ!もう2019年!?」



1月20日(日)

お母さんにそっくり!



空耳がいる。

ジムのお風呂に行くといつも空耳アワーに出てくるタモリじゃないほうのロン毛のおっさんにそっくりなおっさんがいる。ゴルフの朝練に行った帰りに、ゴルフの練習場にはシャワーがないから、ジムに寄ってシャワーを浴びてお風呂につかってサウナに入るのを楽しみにしているのだけど、今日もいた。朝イチに空耳がいた。そういえば、空耳をジムのフロアで見たことがない。


風呂でしか見たことがない!


おそらく空耳はジムを銭湯代わりに利用しているのであろう。そういう僕も、実はジムのお風呂のみを利用する常習犯なのだ。最近は帰るのが遅くてジムが閉まっているので寄らないけれど、以前はサウナで汗を流すためだけにジムに寄っていた日も多々あった。


大きなお風呂につかって、サウナで汗を流すと疲れが本当にとれるんですよーーーー!!!!!


(神様、今年はジムが開いてる時間に帰れますように!)

(ま、無理だな。)




昨日も走った。

仕事が終わってから体調がいまいちだったので行くかどうか迷ったのだけど、いざジムに行ってランニングマシンに立ったときには気持ちが前を向いていた。初めは様子見で10km/hから入って10分走ったところで、「ああ、大丈夫そう」と感じたので、スピードを11km/hにあげて30分まで走ったところで、「ちょっと疲れたなー」という感じだったので、10km/hにスピードを落として40分まで走った。いったんスピードを上げてから戻すとすごくゆっくりに感じて、「こりゃ、いけるぞ!」という気分になって、残り20分(制限時間60分)ギリギリでも構わないから10km走り切ろうという気持ちが湧いてきた。

そして10kmみごと完走。最後の300mは15km/hまでスピードを上げて突っ走ってみたが、さすがにこれはやり過ぎだった。足がマシンのスピードについていけなくてふらふらして怖かった。一歩間違えたら大惨事になりかねない。反省。

でも、箱根駅伝で走っているようなランナーはだいたい20km/hくらいで走ってるんだよねー。ジムのインストラクターの先生の話によると、彼らは体重がめちゃくちゃ軽いらしい。オレもあと30kgくらいダイエットしたら20km/hくらい出せるかなー


絶対ムリ!


さてさて、異次元の世界の彼らはおいといて、僕は僕なりに昨日の走りを振り返るとすごくよくて、とくに40分くらいからがよかった。初めの30分は探り探りだったのだけど、40分くらいから吹っ切れた感があった。いわゆるランニングハイなのかもしれないけれど、体調の不安もさることながら、なんというか、仕事の不安やら、日常の不安やら、人生の不安やら、なんかそういう煩わしいことがいい意味でどうでもよくなって、表情が険しくなるのとは逆に、なんだか表情がすごく穏やかになったのを感じた。


疲れ切ってはいるが、それが不思議な陶酔感となって彼に感ぜられた。彼は自分の精神も肉体も、今、この大きな自然の中に溶込んで行くのを感じた。その自然というのは芥子粒程に小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のような眼に感ぜられないものであるが、その中に溶けて行く、   それに還元される感じが言葉に表現出来ない程の快さであった。何の不安もなく、睡い時、睡に落ちて行く感じにも多少似ていた。一方、彼は実際半分睡ったような状態でもあった。大きな自然に溶込むこの感じは彼にとって必ずしも初めての経験ではないが、この陶酔感は初めての経験であった。これまでの場合では溶込むというよりも、それに吸込まれる感じで、或る快感はあっても、同時にそれに抵抗しようとする意志も自然に起るような性質もあるものだった。しかも抵抗し難い感じから不安をも感ずるのであったが、今のは全くそれとは別だった。彼にはそれに抵抗しようとする気持ちは全くなかった、そしてなるがままに溶込んで行く快感だけが、何の不安もなく感ぜられるのであった。

志賀直哉『暗夜行路』)


僕がよく引用するフレーズで、以前にヨガのレッスンに参加しているときにもこんな気持ちになったのだけど、今回もこんな感じだった。




表情が穏やかになるといえば、この子の歌声を聴いているときもそうだ。



ツイッターのタイムラインにたまたま流れてきたのだけど、メアリー・ルー・ロードの娘さんらしく、ネットでも話題になってるし、僕もびっくりしたけど、


おかあさん、そっくりじゃん!


風貌もそうだけど、歌声もそっくり!



Mary Lou Lord - Lights Are Changing



声楽的に正しいとか正しくないとか分からないし、彼女がどのジャンルに属するのかも知らないけど、ウィキペディアで調べたら、ニルヴァーナ界隈のアーティーストをグランジ(汚れた、薄汚い)というらしく、ロック音楽のジャンルのひとつらしく、メアリー・ルー・ロードや娘さんのアナベル・ロード・パティもその一派ということになるのかもしれないけれど、そんなことはどうでもよくて、親子そろって声がすごく綺麗だよね。


っていうか、この声


"好き"





1月12日(土)

大泉洋的な...



2019年も始動。

昨年けっこう体力を削って働いたので、まずは様子を見つつ。平日は22時までで深残は控えて、土曜日の仕事も平日よりは緩めに働くから大丈夫なのだけど、やっぱり朝がつらい。平日の疲れを平日のうちに解消できておらず、疲れが残った状態でのスタート。

なんとか仕事をこなして、今日はジムが開いてる時間に帰れたのでランニング。8km走って、1km歩く。もうちょっと走りたいのだけど、体力が落ちてるから、当面は週一でこの距離を走ることを目標にしよう。

それつけても運動不足が深刻だ。なんとかしないと....




さてさて、友だちから勧められたマンガを正月から読み始めて、けっきょく最後まで読みきってしまった。『恋は雨上がりのように』、略称、


恋雨


主人公がじぶんに近いから、とは言っても近いのは年齢だけなのだけど、ついつい感情移入して読んでしまった....

そう言えば、このマンガは映画化されていて、主人公を大泉洋が演じたんだよねー


「恋は雨上がりのように」予告


そうだよなー、そろそろ、じぶんにも大泉洋的な魅力がじわじわっと滲みでてきてもいい頃なのに、オレのなかには大泉洋がこれっぽっちも見当たらねーなー


残念だ。


ま、今年もがんばろー





1月6日(日)

のんびり




明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。


お気づきのとおり、ブログを引越しました。というか、今まで利用していたブログが3月末で閉鎖するらしく、立ち退きを命じられたので渋々。


10年くらいブログを書いているのに、まだ新しいブログの書き方に慣れません。


枠と線を多用するこれまでの書き方が染み付いてしまっていて、新しい書き方に違和感なくフィットするまでに少々時間がかかりそうです。。。




さてさて、年末年始は、のんびり過ごすことができました。昨年は仕事が忙しく、連休というのは約1年ぶり、つまり昨年のお正月以来だったので、やりたいことや読みたい本がたくさんあったのだけど、のんびりしていたら、あっという間に終わってしまいました。


でも収穫もありました。久しぶりに音楽をたくさん聴きました。特にいままでほとんど聴いてなかったヒップホップをたくさん聴きました。





今を時めく、ライゾマの真鍋くんやサイトーとは大学の同期だったので、彼らのイベントにもちょいちょい行っていたのだけど、今から思えばけっこう贅沢な経験をしていたのだけど、当時はヒップホップを全然聴いてなかったし、全然わからなかったので、ただ単に「大きなスピーカーで音を浴びていたら気持ちいい〜!」って感じで、アホみたいな聴き方しかしてなかったので、じぶんのなかに何にも蓄積されず、何にも育むことができませんでした。



rhizomatiks.com



それが今になって、というのは遅すぎるのだけど、まだまだハマるところまでは行ってないのだけど、ヒップホップが楽しく聴けるようになってきました。




Kendrick Lamar - Sing About Me (HD Lyrics)



大和田 ケンドリックのストーリーテリングに特徴的な人称/ペルソナの操作も、この『good kid, m.A.A.d city』で萌芽します。語り手というかたちで友達の兄やセックスワーカーの女性、そして両親に憑依しながら物語を展開させていく。


磯部 視点の多さはこのアルバムの特徴ですよね。ラップ・ミュージックに対するステレオタイプとして、一人称の音楽だというものがあります。ラッパーはまず自分の人生や生活実感を歌うものだという認識で、実際にそういうタイプが多いわけですが、『good kid, m.A.A.d city』でケンドリックが試みたのは、“グッドキッド”という主役を設定しながらも、“マッドシティ”=コンプトンで暮らすさまざまな人々の「声」を代弁するということでした。


吉田 ギャングスタ・ラップがヒットした背景には、もともと怖いもの見たさで、普通は見ることのできないストリートやギャングの生活を覗いてみたいというリスナーの欲望がある。これはギャング映画なんかでも同じですね。ケンドリックがこのアルバムでやったのは、これまでギャングスタの一人称だけで語られていたところを、同じフットで暮らす周囲の人々を多人称的に描き出すことで、立体的な物語にした。様々な視点のカメラで映画を撮るような感覚ですね。ダークツーリズムのような感覚でスラムを覗き見るようにこれまでのギャングスタ・アルバムを聴いていたリスナーを、ある意味でもっと深くギャングスタ・サイドに誘い込んで、経験させてくれるわけですね。もし本当にこちら側に来たらこんな目にあうんだぞと。


磯部 ケンドリックはコンシャス・ラップもできるし、ギャングスタ・ラップもできるという話が出ましたが、『good kid, m.A.A.d city』はまさにそういう作品ですよね。グッドキッドが主役なのでマッドシティの社会的背景を問う作品かと思いきや・・・・いや、そういう側面もあるんですが、意識の高いラップを物足りないと感じるような、ゴリゴリのラップを好むリスナーを楽しませるギャングスタ・ラップ・アルバムでもある。そこでは、オリジナル・ギャングスタ・ラッパーのMCのエイトや新世代ギャングスタ・ラッパーのジェイ・ロックといったゲストも効いているんですけど、何より、グッドキッドがギャングに出会したり、ハード・ドラッグでぶっ倒れたり、酷い目に会う描写の臨場感が凄いんですよね。つまり、ギャングスタ・ラップというと、これまではギャングスタ目線だったわけですけど、ケンドリックはギャングスタに怯える一般市民目線で同ジャンルを再構築。しかも、エンターテインメントとして。言わば、マッドシティという舞台で展開されるホラー/パニック映画というか。


大和田 さらに、このアルバムではフラッシュバックの手法による時間軸の操作が行われたりもするんですよね。つまり、文学作品の「語り」の工夫が、このアルバムには凝縮されている。「詩的正義」(Poetic Justice)なんて17世紀以来の文学用語でもありますし。


磯部 同名曲で使われた"Poetic Justice"という言葉には、そのような文学的な意味と共に、ジャネット・ジャクソン主演で、2パックも出演した恋愛映画『ポエティック・ジャスティス 愛するということ』(1994年)も掛け合わせられています。2パック・フリークのケンドリックならではのアイディアですが、ハイカルチャーサブカルチャーを組み合わせているところも実に彼らしい。


吉田 当然ながら2パックの影響は大きいですよね。『good kid, m.A.A.d city』のリリース後に、ケンドリックが25枚のフェイバリット・アルバムを挙げているんですが、彼がラップを始めるきっかけとなったDMXやビギーなどに加えて、2パックの『Me Against the World』(1995年)も入っています。そこに収録されている「Death Around the Corner」は、「どこを歩いていて俺の周りを死が取り囲んでいる」という曲で、ケンドリックは2パックがどういう「空間」(space)のもと、どのように周囲に緊張をはりめぐらせながら生きているのかがそのまま伝わってくるのがいいと言っている。『good kid, m.A.A.d city』収録曲「Sing About Me, I'm Dying of Thirst」は、まず殺された友達の兄、次いでセックスワーカーの話をして、最後に自分が朝起きて鏡を見て、「今日が自分の最後の日になるかもしれない」ということを考える自身のリリックで終わる。「Genius」にケンドリック自身がこの曲を解説したインタビュー文が載っているんですが、自分がストリートのコーナーを曲がった先にいつ車が待機していて、撃たれるかわからない。たとえ逃げおおせたとしても、反対側のコーナーにはまた別の車が待っているかもしれない、というコンプトンで生きることの極限的なストレスについて述べている。だから歌詞中の頻繁に登場する"corner"は、2パックが生きた空間でもあり、背後にいつも死の気配を感じさせられる人生を象徴的に示したものと言えます。

そこで重要なのが母親の存在で、彼女はケンドリックを"向こう側"へ行かせないために、つねに留守電を入れて引き留めようとするんですね。ケンドリックの楽曲における母親というモチーフはいろいろと面白くて、「FEAR.」(『DAMN.』)のバースでは「〜しないとケツ叩くわよ」と延々と注意し続ける、お叱りラップですね(笑)。母親は庇護者でありながら抑圧者としても描かれる、複雑なフィギュアの持ち主なんです。


大和田 ひとつのアルバム内でこれだけさまざまなストーリーテリングの装置が使われていることを考えると、ケンドリックがノーベル文学賞すらも獲れるんじゃないかと言われていたのも頷ける気がします。


磯部 リード・シングルである「Swimming Pools(Drank)」も、酩酊したようなビートの上で「プールいっぱいの酒に飛び込む」と歌うサビだけを聴くとパーティ・チューンのようですが、ヴァースではアルコールに翻弄される人々を延々と描写していて、フロアで聴くと奇妙な気持ちになりそうです。皮肉が効いているとも、メタ的だとも言えるし、ギャングスタ・ラップに対する態度やBワードの使い方と同じで、アルコールを含めたドラッグに警鐘を鳴らす一方、明確には否定せず、悪い雰囲気を醸し出すための小道具として多用するところはあざといなあとも思いますね。もちろん、それが彼の作品の、善悪、虚実入り混じった魅力になっているわけですが。


吉田 ケンドリック自身がインタビューで「こんな作品は今までになかったから、1冊の本にしたいくらいだ」と語っていますね。色々な場面で書き溜めたメモをコラージュ的に組み合わせてリリックを作っていたようだし、ケンドリックにとってあのアルバムはラップ以上にひとつのテクストの塊だったのではないか。ただ彼のメタ視点が全篇に行きわたっているものの、ラップの場合は常に地の文があるわけではないから、そういう意味では小説というより戯曲的ですよね。ケンドリックはラップを戯曲化したと言ってもいい。でも、あまりのスキのない“でき過ぎっぷり”と、あの純粋そうな笑顔がズルイなという感じで、「優等生」という批判的な見方につながったんだと思います(笑)。


大和田俊之、磯部涼、吉田雅史 鼎談「USヒップホップの交差する地平」『ユリイカ2018年8月号 特集:ケンドリック・ラマー』所収 pp.144-146.



ケンドリックのキャリアを見通したとき、『To Pimp a Butterfly』はやはり、かなり戦略的にブラックネスを演じたものだったように思える。戦略的に演じたと言っても、悪い意味ではない。それは、目のまえに広がる黒人差別に対抗するという切実さを含んだものだ。しかし、「どこから来たか」という問いのもと、ケンドリックの音楽をアフリカという単一の起源に押し込めてはいけない。それが一面的な事実だとしても、ケンドリックの音楽にはそれ以外の線も走っている。Gファンクであると同時に、ジャズであること。ヒップホップであると同時に、インディーロックであること。それら複数的な線の交点として、ケンドリックが「どこにいるか」を捉えるべきだ。

こんなことを書くのは、ヒップホップという表現形式がすでに、アフリカン・アメリカンという人種的なアイデンティティから乖離し始めていると思うからだ。ヒップホップはアイデンティティ・ポリティクスの一表現である、というテーゼは、黒人においてさえ問い直されなくてはならないのではないか。例えば、サウス系の代表格、リル・ウェインによる「BLM(Black Lives Matter)とはつながりを感じない」という発言には、そのような問いかけが含まれている。BLMは大事なムーヴメントだし、人種差別も許してはいけない。しかし、黒人であることが同時に貧困を意味していたヒップホップ黎明期とは時代が違うのも、またたしかだ。白人の貧困層も黒人のエリート層も存在している現在、人種的なアイデンティティによる連帯はどのように可能なのか。

ケンドリック・ラマーは現時点において、アフリカン・アメリカンというありかたを引き受けている。しかし、ケンドリックが体現している音楽はすでに、いわゆる黒人性にとどまっていない。表面的には黒人性を強く打ち出しながらも、黒人/白人といった人種的区分を超えて無方向に飛散するケンドリックの音楽は、そのリリックやパフォーマンス以上に、政治性を潜ませている。新しい時代の政治性を。それを見極めるためにも、ケンドリックに問うべきはやはり、どこから来たかじゃねえんだよ、どこにいるかなんだよ。


矢野利裕「どこから来たかじゃねえんだよ、どこにいるかなんだよ ケンドリック・ラマーに引かれる複数の線」『ユリイカ2018年8月号 特集:ケンドリック・ラマー』所収 p.176.



なるほど....


世界情勢がどうなるか分からないので、さすがに今年は新聞を読もうと思っているのだけど、トランプや習近平といった要人の動向を追うだけではなく、ケンドリック・ラマーのような才能あふれるアーティストが、どのような方向へ創作活動を進めてゆくのかも見ておいたほうがよいですね。




そう言えば、もう一つ気になる動きがあって、Perfume(パフューム)が、米最大音楽フェスCoachella《コーチェラ2019》に出演するらしい。





大和田 アジアの音楽がアメリカに進出するときの困難は、向こうのサウンドに合わせないと、そもそも他者としてすら認識されないことだと思う。他者として認識されるためには、度量衡をアメリカのサウンドと共通にさせておく必要があるというか。よくいうんですが、Perfumeきゃりーぱみゅぱみゅアメリカで伸び悩む一方でBABYMETALがウケているのは、ハードロック/ヘビーメタルという世界共通のルールに則っているからなんですよね。そもそもサウンドをきちんと合わせないと「アジアらしさ」が伝わらない。

(同上 p.157.)



確かに....


アメリカって自由の国というイメージが強いけど、契約社会とよく言われるように、ルールの縛りがきつい。例えば、野球のように向こうのルールに合わせた枠組みのなかで、大谷選手のように自らの才能を表現する場としては、アメリカはもっともやり甲斐のある場所だけど、こちらで作ったルールで乗り込んで行っても、全然相手にされない。


とは言っても、Perfumeアメリカに受け入れられつつあるように感じます。それに真鍋くんたちが今やっていることと学生時代にやっていたことが、だんだんシンクロしてきているような気がします。渋谷のレコード屋や中目黒のクラブに入り浸っていたあの頃が、新たなシーンとして、単一ではない複数的な線の交点として、結実しつつあるようです。




[Official Music Video] Perfume 「Future Pop」



オレもがんばろー












 日記Z2018年12月












 阪根Jr.タイガース


 阪根タイガース