日記Z 2015年12月
2015年、皆様ありがとうございました!!
12月29日(火)
ダンサー・俳優・スポーツ選手の身体
年賀状を書こうと思ったら住所録を東京のアパートに忘れてきたことに気がついた。年賀状はずっと書いてきたけど、今年は出せません。ごめんなさい。その分、時間ができたのでひとりMTG.2015年の総括と2016年のヴィジョン。
2015年は仕事もプライベートも我慢の年だった。仕事は昨年の開発段階からの疲労が抜けきらず、このままアクセルを踏みっぱなしで行ったら倒れると感じたので自分なりにセーブした。ただ僕個人のパフォーマンスは落ちたけれども、チーム全体としてはパフォーマンスが向上したので一年を乗り切ることができた。今年はチームに甘える形になったけれども、2016年は僕自身のパフォーマンスを上げて行こう。
「なんでもともと建築をやっていたのにゴルフシャフトを創ってるのか?」と言えばたまたまなのだけど、それがうまいこと、これまで自分がやってきたことの延長線上に乗っかってきた。
テーマは「スポーツ選手の身体へのアプローチ」
昨今のスポーツについて言えば、全般的にトレーニングメニューが発達していて、その点においてはテクノロジーがうまく介入しているのだけど、道具でまだ発展する可能性があるスポーツと言えば、モータースポーツを除けば、もうゴルフくらいしかない。僕自身は経験のある野球やテニスの方が入りやすいのだけど、技術屋として介入するとすればゴルフが一番面白い。
ライゾマの斎藤精一と話していて、お互いもともと芸術畑の人間だけれども、人びとの生活や身体にどうやって介入して変えていけるかというのがテーマになってきている。ライゾマはプロのダンサーやアーティストとのコラボレーションを意識的に展開しているし、それ以外にも日常品へも表現の域を広げていっている。
僕自身も、ダンサーや俳優の身体表現には興味を持っていて、演劇を観に行っている。演劇は純粋に好きだから観ているという面が強く、あまり仕事と結びつけないようにはしているけれども、ライゾマと東京デスロック(多田淳之介)は表現に対する問題意識がかなり近いので早くコラボレーションをするようになったらいいなと思うし、今年で言えば、パラドックス定数(野木萌葱さん)は演劇空間の捉え方がすこぶる面白くて、「なるほど!」って勉強になった。このあたりは僕の問題意識にかなり近いのだけど、それ以外にも、演劇は身体表現だけではなく、脚本の力というのもあって、今年で言えば櫻井智也さん(MCR)や桑原裕子さん(KAKUTA)といった人間の内面や性質、そこから展開していく出来事をうまく描く劇作家の作品を観れたのが収穫。あとポエトリーアーティストのPippoさんのおかげで詩がこころにすっと入ってくるようになったので、2016年は、今までちょっと抵抗のあった詩集も詠んで、人の内面に対する感度をもっと高めていきたい。
プライベートは? う〜ん、こればっかしは相手があることだから、僕ががんばってもどうにもならない面が強いし、がんばればがんばるほどダメになるように思えてきたから、2016年はできれば自然体でいきたい。気持ち的にはそんな余裕もう全然ないけど。
2015年を振り返れば、プライベートも含めてそれなりに楽しかったし、仕事もプライベートも2016年のかたちが何となく見えてきた。
12月28日(月)
西へ
12月27日(日)
2015年見納め&踊り納め
お酒が抜けないまま本多劇場へ。ナイロン100℃『消失』千穐楽の当日券を狙うもゲットできず。あの様子だと朝8時頃までにならんでないとゲットできなかった模様。あと1時間の気合いが足りなかった。来年の課題としよう。でも劇場入りするケラさんを観れたから、ま、いいか。
夜はライゾマ忘年会という名のクラブイベント。楽しかったーーーーー!!!!! いや〜スゴイ!! 何がすごいって、大学のころ中目黒でやってたイベントと何にも変わってないってこと! 確かにハコが大きくなったり、スペシャルゲストでええっ!!!っていうアーティストが来たりしたけど、なーーーーんにも変わってない、あのときのまんまのメンタリティを彼らは今もなおずぅっっと持ち続けている。彼らは同じ大学出身だったという縁で活動をスタートしたけれど、大学でならったことなんてないに等しいし、そもそも大学になんかいないし、彼らを結びつける原点ってクラブっていうか音楽なんだよなーって、きょう改めて思った。
ちなみに、きょうの一番の収穫はAmetsubさんかな。あんな音、聴いたことないや。優しい感じの音を使いつつも体内にぐいぐい刻みこんでくる、やられたなー
今年もライゾマと一緒に仕事ができたし、楽しい仕事だった。完成した時に喜びが自然と湧いてくる仕事だった。来年ももっともっと楽しいことがやりたいし、そろそろまた彼らの作品について書きたいという気持ちも高まってきた。振り返れば、僕が彼らの作品についてまともに書いたのは実は1本だけ。
2007年かー、あのころはまだ彼らとの距離が近かったから彼らがやろうとしていることがだいたい分かった。でも今は彼らが遥か彼方に行ってしまったので、もう何をやっているのかさっぱり分からない。だからこそ、書くにはちょうどいいかもしれない。ただ、僕は今、書くことが本業ではないから、いまライゾマと一緒にやっている本業をもっと彼らの活動にジョイントさせて、さらに面白い展開をみせてゆくように持って行かねばならない。そこに書くこと(批評)が絡んでくればいいんじゃなかろうか。
ライゾマの皆様、今年一年ありがとうございました。来年もすごいことやっちゃいましょう!!!
12月26日(土)
仕事納め。のちチーム忘年会。赤ワインをあんな飲み方したらアカン...
12月25日(金)
世界を知るとはどういうことなのか?
書店員時代にお世話になったBさんが勤め先の出版社を退職するという。えっ、マジ!? う〜ん、本のことをよく分かっていて、デザインのセンスもあって文字を組める。そんな彼女が本の現場を離れてしまうのは本当にもったいない。まー、総理大臣なんて誰でもできるけどさー、こういう仕事は彼女にしかできないんだよなー、ホント残念。 でも、まー、ファッションデザイナーの旦那さんと何か新しいことやるのかなーって想像すると楽しみ。ガンバレ!!
そんなBさんが勤めていた出版社は言語学に関する書籍をたくさん出していることもあって、彼女は言葉に対する意識がすごく高かった。そんな彼女に教えてもらった本で感銘を受けたのが、小島剛一さんの『トルコのもう一つの顔』(中公新書)。
「世界を知るとはどういうことなのか?」
この本を読んでつくづく感じさせられた。
たとえば、「俺、実はトルコ人じゃないんだよ」に始まる話は、長距離バス発着所の食堂などでするわけには行かない。「トルコ人ではない」と言っても「外国人だ」という意味ではない。トルコ国籍には違いないが、トルコ語を母言語とするトルコ民族の一員ではない、という意味である。イスタンブールには「トルコ国籍のギリシャ人」がいて、西トラキアには「ギリシャ国籍のトルコ人」がいる。国籍と民族ははっきり区別しておかないと、そのつもりではなくとも人の心を傷つけてしまうことがある。
ベルギーには、フラマン語(フランドル語)を話すフラマン人、フランス語を話すワロン人、二重言語地帯のブリュッセル人、それにごく一部ドイツ語地域があって、「ベルギー人」と言えば、言語や文化とは無関係に国籍だけを示す言葉だから誤解は生じない。
フランスの場合は、誤解、曖昧さをふせぎ得ない。国の名前がフランスだから、「フランス国籍を有する者」という意味での「フランス人」という使い方があり、これとは別に「フランス語を母国語とし、フランス文化を享有する者」という意味での「フランス人」がある。アルザス人が、「私は《アルザス語を話し、アルザス文化を享有する》アルザス人であり、かつ《フランス国籍だから》フランス人だ」と言うのも正しいし、「私は《フランス語が母言語ではないから》フランス人ではない。アルザス人だ」と言うのもまた正しい。今のフランスではどちらを口にしてもそのために逮捕投獄されるようなことはない。
小島剛一『トルコのもう一つの顔』(中公新書)pp.29-30.
昨今の「グローバル化」の流れに乗ることと世界を知ることとは全く別問題。グローバル化というのはむしろ世界を見えづらくしている現象であって、グローバル化に乗れば乗るほど世界が見えなくなってゆく。そのことをちゃんと理解しておかねばならない。
最後に本を3冊ほど紹介します。もうすぐお正月休みだしね、ぜひご一読ください!!
世界を知るきっかけを与えてくれる本
- 作者: 小野博
- 出版社/メーカー: モクシュラ
- 発売日: 2012/11
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- 作者: 小島剛一
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2013/11/01
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- 作者: 多和田葉子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2012/10/17
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12月24日(木)
メリー・クリスマス
めずらしく夢を覚えたまま目覚めた。まだほとんど話したことのないその子が「マメを食べられないからサラダから抜いて」と言って席を立ってどこかへ行ってしまったので仕方なくマメをとる。けっこう入っている。一度これで終わりと思ってやめようと思ったのだけどサニーレタスの裏にまだあったので、ふたたび箸でつまんで取り続ける。けっこう骨の折れる作業だ。さすがにもうないだろうということで作業を終えたのだけど、その子がなかなか戻ってこない。そのうちに眠たくなって寝てしまう。しばらくして、その子が帰ってきたようでやさしく微笑んでくれたような記憶がうっすらとある。打ち合わせが延びたから戻ってくるのが遅くなったんだなとなぜかじぶんは納得してそのまま眠っている。そして目が覚めた。
こういうのは誰にも言わずに心にしまっておく方がいいのかな?
さて、きのうの日記で「自分にあんまり興味がない」と書いたことが引っ掛かっていた。「自分も他人と同じく、一人の他者なのだから、自分も他人と同じくらい興味を持てないようじゃ、いくら他人を応援してもダメなんじゃないか?」と思っていたら、こんな素晴らしい詩に出逢った。
お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。
ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。
自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。
これはPippoさんの本で紹介されていた詩で、吉野弘さんの詩らしい。ぼくは前々から「自己犠牲」というのもちょっとバランスを失った言葉だと感じていた。この言葉は、自分というのは他人よりも距離を近く感じられるので、どうしても自分自分となってしまうことに対する戒め程度に心に留めておくのがよい。相手のことをまったく考えないのはダメだし、かといって自分のことを考えないのもダメなのだと吉野さんの詩を詠んで思った。
それから、吉野弘さんはふたりの間柄についてこんな魅力的な詩も詠んでいる。
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
(「祝婚歌」より)
すっごくいい。
吉野弘さんの詩を詠んで、心がすぅっとしたところで、きょうはクリスマス・イヴだから、賛美歌でも歌おう。毎年この時期に聴いている曲。
内田るん feat. 柴田聡子 - 荒野の果てに
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12月23日(水)
という名の会社の忘年会。だんだん年を取るにつれて1年1年の区切りを感じられなくなってきていて、クリスマス感も年末感もほとんどないのだけど、やっぱり仕事はね、会社の同僚と一緒に飲んで労をねぎらっていると、「ああ、1年間やってこれたんだなー」って思えて感慨もひとしお。そして、来年も1年間なんとか乗り越えられるように頑張ろうという気持ちになる。
なんやかんや言って仕事は難しい。仕事がダメになると何もできなくなってしまうから頑張らねばならないし、持続させるというのはとにもかくにも難しい。しかし、逆に仕事ばっかりやってるとほかに何もできないまま人生があっという間に終わっちゃう。このあたりのバランスがやっぱり難しい。
僕は性格的に人を支えるのが好き。自分はどうでもいいというか、自分にあんまり興味がない。それよりも人を応援したり、人が輝いたり、成長してゆく姿をみるのが好き。これは演劇を観ていても、野球を観ていても、ゴルフを観ていても同じ。ま、他人のことはどうでもいいから、もっと自分から勝負しろよという意見もあるだろうけど、この性格はもう変えられないし、これはこれでもういいんじゃない。
来年は、仕事をする自分と演劇や野球を観る自分がもう少しうまくかみ合ってくればいいなーって思う。
12月22日(火)
お疲れ様でした。体をゆっくり休めましょう。
仕事して、家に帰って考えごと。少し風邪気味。
一昨日の日記で、俳優という職能の特殊さについて書いたのだけど、俳優と建築の職人やオーケストラの奏者、あるいはピアニストを比べたら似てるかもしれない。
例えば建築の場合、建築家や設計者が図面を書いて、それに基づいて職人が建築をつくる。音楽の場合も作曲家が書いた楽譜があって、指揮者に従って奏者が音を出す。指揮者というのは演劇でいう演出家みたいなものかな? ピアノの場合は指揮者がいないから、ピアニストが演出を自分でしているのかな?
そう考えると、確かに俳優と似ている。
戯曲が生きるも死ぬも俳優次第だし、建築の場合も建築に命を吹き込むのは職人だし、音楽の場合も、この奏者にしか出せない音があるってよく聞くし。
う〜ん、でもなー、俳優っていうのはやっぱり何か違う。何かが!!!
12月21日(月)
しごとして、永瀬清子さんの詩集をすこしだけ読んだ。
12月19-20日(土日)
俳優とイタコ
ナイロン100℃『消失』のチケットを取っていたのだけど仕事で行けず。あとは来週末の当日券を狙うしかない。この大作を今年の見納めにしようと計画していたのだけど、さすがに難しいかな… 今年はこんなのばっか。
忙しいと言えば忙しいのだけど、働き過ぎると精神のバランスを崩すから、今年はどちらかと言えば仕事をセーブした。昨年までの開発段階に相当な力を注ぎ込んだのでその貯金で今年はなんとかやっていけた。でも来年はいろいろ手を打っていかないと難しいと思う。ビジネスと割り切ったとしても、食っていけるレベルをキープしなければならないので、仕事を要領よくやったとしても、やっぱり相当な時間を仕事につぎ込まねばならない。
そう考えると、もう観たい演劇作品を片っ端から観るというのは不可能なので、観劇数は少なくても、観劇の精度を高めるというか、深めるというか、そういうスタイルに切り替えたほうがいいね。今年も良い作品に出逢う確率は高かったので、来年以降も観劇数は少なくなってもたぶん満足できる。
で、このまえ観たKAKUTA『痕跡(あとあと)』が良くて、観劇して終わりじゃなくて、観劇したあとあともまだまだいろいろなことを考え続けている。あの作品では、ぼくは沖廣也&みさをという夫婦に注目していて、旦那の廣也に自分を重ねてみていた。
でも、この夫婦以外にも気になる人物がいて、例のあやしい焼肉店とか。韓国料理なのに働いているのが中国人!? その中国人が、不法入国者とか偽装結婚していると聞くとすぐに「犯罪者=悪い奴」と括って理解したつもりになって排除するけれども、当事者の意識はもっと複雑だよね。彼彼女らはそもそも希望をもって日本に来た訳ではないし、いまやっているのは望んだ仕事でもないだろうし、でも考える余地も時間もないから、なんだかよく分からないことでもするし、とにかく生きようとする。このような計画性を持てない刹那的状況であっても自分を成り立たせていると思ったら、彼彼女らの精神レベルは国の制度に守られてぬくぬくと育った日本人なんかよりもずっと高い。
で、観ている僕たちがそういう思いを感じているのだから、演じている俳優はどういう思いで演じているのだろうと思っていたら、山田花子(中国人のホステス)役の多田香織さんが自身のブログ(タダりズム)で書いているし、折出有樹(出生不明のマスター)役の大神拓哉さんもツイッターで書いている。やっぱりこういう役を演じるのは俳優にとっても難しいし、壁にぶつかっているし、いろいろ考えているし、ものすごいエネルギーを費やしている。
なるほど。
あと俳優という職能というか生き物について興味深いのは、あれだけの作品を演じたにもかかわらず、休む間もなく次の作品の役作りをもう始めているということ。そんなことできるのか? 誰かが「俳優=ヴィークル(乗り物)」説を唱えていて、いろんな戯曲が俳優に乗ってきてまた降りて行く。この繰り返しだと。ただ前田司郎さんがこんなことも言っている。
戯曲とはそもそも口語で書かれたものだ、という考え方もあるでしょう。しかし戯曲に書かれた言葉は、やはり書き言葉であり、俳優の身体を通って初めて話し言葉になる。その変態が上手くいかないと、書き言葉を話す変なお芝居が出来上がるのです。俳優の身体の中で起きている不思議な変化、書き言葉が話し言葉になり、まるで文字が生命を得て蝶のように飛んでいく、その瞬間を僕たちは興奮して眺めます。
まるで言葉が生きているように見えるのです。※1
これはもう「俳優=ヴィークル(乗り物)」ではなく「俳優=イタコ」だよね。演劇の神様に魂をささげて、神様のことば?に生気を与えて発する。しかもこれを一度ではなく、ほぼ日常的に何度も何度も繰り返す。何度も何度も繰り返すうちに俳優のなかでいったい何が起こっているのか? 起こっていないのか? 常人にはまったく分からない???
しかも、もっと面白いのが最近、写真家と話していて「写真家はどういう時にシャッターを切るのか?」という問うたら、「あっと思った瞬間(沸点)で切る」場合もあれば、「感情が高ぶらない時に切る」場合もあると言っていた。このあたりは俳優の身体のコントロールに近いのではないか。ただ決定的に違うのは写真家は撮る対象を自分で決めるのに対して、俳優は台詞と演出が外から入ってくるという点。こう考えると俳優という職能のアイデンティティ、パーソナリティというのはかなり特殊。
一般人からしてみれば、俳優が舞台に立つ姿を観ているし、俳優はやっぱり輝いているので親近感があるけれども、劇作家や演出家よりもずっとずっと遠い存在、理解し得ない存在なのかもしれない。
でも逆に、だからこそ魅力的なのだろうけど。
※1 前田司郎『口から入って尻から出るならば、口から出る言葉は』晶文社p.63.
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12月18日(金)
お酒を飲む。毎年、忘年会という言葉の響きがしっくりこないのだけど、今年は忘れてしまったほうがいいような気がする。前向きに、さようなら、2015年。
12月17日(木)
永瀬清子さんの詩集を買った。
「夫婦」ということを思うとき、胸に浮かんでくる詩人がいます。岡山県出身の永瀬清子(1906-1995)です。自由な思想を持ち、人の在りようを尊重する両親のもとでのびやかに育った清子は、10代半ばより詩作を開始。詩をわが道と定め、心を砕いて自分の詩風を着実に育んでゆきます。
(中略)よき妻であり母であろうとし、仕事を持ちながら、同時に何よりも「詩人」として生きようとした清子の葛藤と日々の努力は、尋常なものではありませんでした。けれど清子は、詩を書くことと、大切な家族を支えていくことを、大きな愛と信念でやり通します。
Pippo『心に太陽を くちびるに詩を』新日本出版社 pp.36-37.抜粋して引用。
- 作者: Pippo
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演劇をもっと観たいし、本をもっと読みたいし、音楽をもっと聴きたいし、お酒をもっと飲みたいし、もっともっといろいろな人と話をしたいし、いろいろやりたいことはあるけれど…
12月16日(水)
すこしだけ♪
演劇観たり、写真観たり、お酒飲んだり、もちろん仕事したり。
12月12日(土)
心に太陽を♪
ポエトリーアーティスト・Pippoさんの本、『心に太陽を くちびるに詩を』を毎日ちびちび読んでいる。一気に読むともったいないからちびちび読んでいる。Pippoさんとは数年前に出した『〈建築〉としてのブックガイド』という本の執筆者つながり。以来、文学フリマで朗読CDを買ったり、ツイッターで詩を教わったりして、すっかりファンになってしまった。僕はもともと理系だから言葉に対する感性があまりよろしくない。そういう点をPippoさんから学んでいる。
『心に太陽を くちびるに詩を』という本は、Pippoさんがいろいろな詩人やいろいろな詩を紹介したエッセイ集。読みやすいし、詩の魅力が伝わってくる。この本を読んで僕が好きになった詩人は中原中也かな。
私はおまへを愛してゐるよ、精一杯だよ。
いろんなことが考へられもするが、考へられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。
(「無題」より)
「悲しい」「さびしい」「愛している」「辛い」。
おそらく普通の詩人なら使用するのを躊躇するであろうこれらの言葉を惜しげもなく使いまくる中也。老若男女を問わず、愛唱され続ける中也の詩の魅力
。それは実に枚挙にいとまがないのですが、わたしが最も憧れるのは、中也の「己の弱さを恥じず、さらけだす強さ」です。
Pippo『心に太陽を くちびるに詩を』新日本出版社 pp.27-29.抜粋して引用。
ここ数ヶ月のぼくはまるで中原中也だった! なんていったらちょっとキザだけど、なんだか中也がすごく身近な存在に感じられるようになった。
「小林秀雄に女をとられるなんてサイコーじゃねーか! 中也、おまえホントいい奴だなー、いっしょに飲もうぜ!!」
この下なくまずい酒が飲めそうだ。あしたさっそく詩集を買ってこよう!
- 作者: Pippo
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12月11日(金)
きのう「感ぜられる」などという言葉を使ったのだけど、これは僕の言葉じゃない。なぜこんな言葉を使ったのだろう? だれの言葉だろう? と思いを巡らせていた。はじめ大江健三郎かと思ったけど違った。誰だったかというと、志賀直哉だった。
疲れ切ってはいるが、それが不思議な陶酔感となって彼に感ぜられた。彼は自分の精神も肉体も、今、この大きな自然の中に溶込んで行くのを感じた。その自然というのは芥子粒程に小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のような眼に感ぜられないものであるが、その中に溶けて行く、−それに還元される感じが言葉に表現出来ない程の快さであった。何の不安もなく、睡い時、睡に落ちて行く感じにも多少似ていた。一方、彼は実際半分睡ったような状態でもあった。大きな自然に溶込むこの感じは彼にとって必ずしも初めての経験ではないが、この陶酔感は初めての経験であった。これまでの場合では溶込むというよりも、それに吸込まれる感じで、或る快感はあっても、同時にそれに抵抗しようとする意志も自然に起るような性質もあるものだった。しかも抵抗し難い感じから不安をも感ずるのであったが、今のは全くそれとは別だった。彼にはそれに抵抗しようとする気持ちは全くなかった、そしてなるがままに溶込んで行く快感だけが、何の不安もなく感ぜられるのであった。
(志賀直哉『暗夜行路』)
直哉の場合は、父親に対する葛藤、怒りの感情をずっと抑えられずにいた。そして、長い長いページを費やしてやっとこの心境にたどり着いた。僕の場合は、父親に対する葛藤がない訳ではないけれどもそれほど大きなものではない。母親に至っては純粋に尊敬しているし、僕の人格の70%くらいは母親の影響で形成されている。親に対して複雑な感情はないので、単純に恋愛における葛藤だろう。
僕は怒るのが苦手なので滅多に怒らないのだけど、ここ数ヶ月はめずらしく喜怒哀楽の感情がはっきりと出た。「えっ!オレ怒ってんじゃん!!」って自分でもびっくりした。こころが激しく揺れた。
それがようやっと抜け出せたような気がする。なんか、じぶんの中から湧いてくる感情によってではなく、ぼくの外から訪れたことばによって心が穏やかになった。ありがとう世界。
12月10日(木)
きょうは、とある人のツイートを読んで救われた。宇宙のようにひろいこころでつつまれるように感ぜられるのであった。ありがとう世界。
12月9日(水)
日々是反省
きょうは女友達にこんなことを言われた。
自分の気持ち優先で周りや相手の気持ちまで考えてあげられてないというか、考えているつもりだけど自分に都合よく考えてるという感じかな?
グサッときたけど、否定できなくて凹む。合わせる顔がない。ごめんなさい。
でも凹んでばかりいるとさらにどんどん凹んで地球の裏側まで突き抜けてしまいそうで、んっ!? それはそれでなんだか面白そう! いやいや、そういう訳にはいかないから、反省すべきことはちゃんと反省して、前へ進んで行こう。
きょうはこの歌を聴く。中村あゆみさんの『翼の折れたエンジェル』。中村あゆみさんのハスキーヴォイスには不思議なパワーがある。僕のからだのなかにジワァーっと広まって勇気が湧いてくる。さあ未来へ進もう!
もし、俺がヒーローだったなら♪
12月8日(火)
とある人に胸にグサッと突き刺さるようなことを言われた。でも、そのおかげで目が覚めたような気がする。我を失っていたんだなー。ありがとう。気持ちを入れ替えて、がんばります!!
12月7日(月)
ご縁がある、ご縁がない。
「縁起」とは、すべてのものが関わり合っているありようのことです。人も動物も植物も、すべての存在は原因と条件という「因縁」が整うことによってあり、何ものも他のいのちと関係なく、それだけで存在することはできません。個々のいのちは、お互いに支え合い、あるいは傷つけ合いながらも、他のいのちがあってこそ、初めて「自分」となるのです。
まず第一に、私たちは、ひとりで生まれてくるのではないですね。因縁によって、生まれるべくして生まれてくるので、両親の存在もひとつの縁にすぎませんが、両親がいなければ自分もこの世にはいないわけです。
大人になって社会に出て、自立して生きているつもりでも、まったく他のいのちと関わらないということはあり得ません。いつも通る道に気持ちのいい木があったり、朝晩行き会う犬や猫はいませんか。あるいは、はからずも鉢植えの花を枯らしてしまったことはないですか。さまざまな関わり合いのなかで、個々のいのちはあるのです。
(中略)
縁というのは偶然もたらされるものだと思われるかもしれません。しかし、縁は必然なのです。思いがけない出会いや別れも、悲しいできごとさえも。このことは、運命論などとはまったく違います。すべてあらかじめ決まっているのではなく、それぞれの、その時々の関係性において決まっていくものなのですから。
ふつうの人間の頭では、到底理解し得ないところに真理はある。
「理解できないものなど存在しない」と、片づけてしまうのは簡単です。しかし現実には、納得できない、あるいは予想もつかない不思議なことが起こります。どうしてあのタイミングであの人に会えたのか、どうしてあのときとっさにあんな行動がとれたのか。それをつきつめていくと、私たちの知恵の及ばない「何か」がある、と考えたほうがつじつまが合う。その「何か」こそを、縁起というのですね。
梶田真章『ありのまま』pp.90-93.
- 作者: 梶田真章
- 出版社/メーカー: リトルモア
- 発売日: 2006/01/01
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12月6日(日)
朝、歯医者に行って、前田司郎さんのエッセイ集『口から入って尻から出るならば、口から出る言葉は』をぼーっと読んでいた。いい文章だった。前田さんの本音がストレートに出ていた。
前田司郎さんは演劇の五反田団の公演を通じて知った同年代の作家だけど、この五反田団というのがちょっと曲者。いわゆる脱力系というか、演劇ってどこか格好よくみせたり、かしこまったりしてしまうのだけど、この劇団はそういったところを一切気にしないというか、セットにお金もかけないし、無駄な労力も費やさない。ありのままを見せてくる。
前田さんじしんも寝ぐせがついたまま舞台に出てくるような人で、いっけん単なるぐうたらに見えてしまう。が、これはけっこう早い段階で気付いたのだけど、五反田団の演劇は難しいし、俳優たちはみっちり稽古をしている。前田さん自身もすごいペースで戯曲を書いたり、小説を書いたりしていて、最近はテレビや映画の仕事もするようになって、じゅうぶん忙しいのに、先日は俳優として舞台にも立っていた。これはけっこう有名な話だけど、三島由紀夫賞の授賞式を途中で抜け出してハイヤーで劇場に直行してそのまま舞台に立っていたような人だ。見た目はひょろひょろで弱そうだけど、すげぇタフガイで、けっしてぐうたらなんかじゃないんだよね。
でも、前田さん、むかしはこういう勤勉なところを隠していたというか、最近まで自分が勤勉だということに気付いてなかったようで、こっちも作品だけしか見られなかったから、どういう人か実際のところよく分からなかった。それが『濡れた太陽』という自分の高校時代をモチーフにした高校演劇の小説を発表した時から、この人がどういう考えで、どういう思いで演劇をやっているのかが分かって、すっごく安心したし、ずっと見つづけたいと思った。
それで、今回の『口から入って尻から出るならば、口から出る言葉は』でよかったのは読書の話かな。
前田さんは、女の子を描写するのがうまくて、それも小学生〜中学生くらいの女の子を描くのがすごくうまくて、演劇の『いやむしろわすれて草』や小説の『夏の水の半魚人』は僕も大好きな作品だけど、どうしてこんなに女の子を女の子らしく書けるのかなーってずっと不思議に思っていたのだけど、『赤毛のアン』の読書体験がその原風景にあったんだなー
あと、小説の『誰かが手を、握っているような気がしてならない』は哲学っぽくて読み応えがあるのだけど、そのくせ、あんまり評価は高くないのだけど、僕はけっこう好きな小説だ。それで、前田さんじしん、どういうふうにして書いたのかが疑問だったのだけど、思いつきでたまたま書いたという訳ではなく、ちゃんとテーマとして探求して書いていたんだなー、ちゃんと本も読んで思考を展開していたんだなーっていうのが今回わかった。
このエッセイ集は、前田さんにしてはめずらしく、すごく真っ当な話をしていて、読書というのは、本を読んだら読んだでどんどんテーマが広がっていって、本と本がつながっていくから、それを読み繋いでいくこと、それがすなわち勉強だってこと。ひとりひとり進んでいく読書の道が異なるので学校では教えられない。前田さんは大学を卒業するのに6年かかったらしいけど、それは授業に出ていなかっただけのことで、こうやって本を読み繋いで、ちゃんと勉強はしていたのだ。
さてさて。
そんな前田司郎さんが書いたこのエッセイ集を読んで僕がどう思ったかというと、僕も探求するテーマを持とうって思った。なんせ、9月、10月、11月は運勢最悪、何をどうやってもダメ、やらないでもダメ、僕の人生でいちばん神様に見放された時期だった。それで12月になって気持ちを切り替えて、さあ走り出そうと思ったのだけど、なかなかなかなか。
もう歳も歳だから、失恋をなめていたのだけど、やっぱり何歳になっても失恋のダメージは大きく、癒えるのに時間がかかる。心が疲れてしまって、何もする気になれない。しかし、そこをなんとか、がんばろうと気力で克服しようと思うのだけど、やっぱり限界がある。それでここ2,3日走り出すきっかけがないかと探していた。ま、新しい恋人がみつかれば全ては解決されるのだけど、こればかりはそんなに都合のいい簡単な話ではないし、さすがに神様にもそこまでは求めない。
それでもう失恋を引きずるのはよくないのだけど、あの恋愛はそもそもが間違っていたからうまくいかなかったし、ダメという結果になるのは当然なのだけど、渦中はどういう状況かまったく分からないから僕もなんとかしようと必死にがんばっていたので良い経験にはなった。いろいろ考えたし、いろいろ思ったし、僕の意思ではどうにもならないような不思議な力も働いた。そこで今回の恋愛の失敗を受けて、次のようなテーマを探求してみたいと思った。
【思索テーマ】
・人と人の「ご縁」(仏教の「縁起」をちゃんと勉強しようかな)
・想いを伝える、あるいは想いを伝えてもらうこと
(コミュニケーション論というのではなくて、ちょっとオカルトっぽいけど呪術的な観点で。僕はこうやってブログに書いたり、手紙を頻繁に書く。読んでくれない人にはまったく届かないけれども、読んでくれる人には届く。対してニコちゃんもカップにメッセージをずっと書いてくれたのだけど、あれは気にしない人は気にしないけど、受けとめる人のなかには確実に入っていく。恋愛関係とは違うけれども、お互いの想いがちゃんと通じ合う。ただ、それとは別に、書かない、言わないという想いの伝え方もある。ニコちゃんは実は基本的にこっちだった。僕はニコちゃんのしぐさやちょっとした変化を敏感に読み取っていた。演劇で言えば、俳優間のあうんの呼吸っていうのだろうか、そこまで言うと言い過ぎだけど、ほとんどそんな感じだった。でも、こっちは恋愛感情を持ってしまっていたから冷静な判断ができずミスリードもたくさんしたし、あくまでも推測なのでニコちゃんのはっきりとした気持ちがずっと分からず、絶えず不安で、このコミュニケーションはストレスを感じてしまってすごく疲れたし、正直ダメだった。こっちとしてはちゃんと言葉で想いを伝えて欲しかった。僕はひたすら書いて伝えて、ニコちゃんはほとんど何も言わずに伝えるというアンバランスなコミュニケーションになってしまって、結果的に持続しなかった。こういった反省もあって、お互いの気持ちの伝え合い方、了解の仕方を考えないとなーって思っている。ちょっとこのあたり勉強してみよう)
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12月5日(土)
劇ラヂ
劇ラヂ!ライブ2015の再放送を聴く。最近よく観劇しているMCRの櫻井智也さんの作品『あさはかな魂よ、慈悲の雨となれ』。この作品を聴いても一言も耳に引っ掛からない人もいるかもしれないけれど、僕は、ま、失恋した後だったから、耳に引っ掛かりまくって、いろいろ考えて、いろいろ思った。感想文をまとめたので是非!!
櫻井智也『あさはかな魂よ、慈悲の雨となれ』
感想文タイトル:『結婚って!?』
12月4日(金)
Friday I´m in Love ♪
12月になって、気持ちを切り替えて走り出せるかなって思ったけど、なかなか。なんやろ、バイクのエンジンをかけようとしてキックを繰り返してるねんけど、エンジンがかかりそうでなかなかかからないっていう感じやろか。バイク乗ったことないけど。きっかけがあるとブルルルンってエンジンかかるねんけど、きっかけがないねん。それでいまは文字読むのはちょっとしんどいから音楽に頼って気持ちを喚起しようとしてる。
この曲、高校の夏休みにアメリカに行ってその時のラジオですごくよく流れていて、「Who is this?」ってアメリカ人の友達に尋ねて、「ホニャララホニャララ」って答えてくれたんやけど、ま、ようするにアーティストが分からなかったから、帰国してからもCDを探しきれなかったんやけど、昨年か一昨年にたまたま十数年ぶりに出逢うことができたっていう縁起のいいマイフェイバリットソング!
さあ、この曲を聴いて気持ちをアゲていこう!!
12月1日(火)
12月です!!
来年はいい年にしたいから、今年のこり1ヶ月は心と体をしっかり整えよう
反動で何かをやるっていうのはよくないから
しゃかりきにならずに、まずは気持ちを落ち着かせて
クリスマスソングを聴きながら
ゆっくり ゆっくり
12月を静かにスタート
毎年、この時期に聴く、このおじさんの歌声が好き☆