2010年1月(その1)




(1月15日)観劇デー

 



三条会『S高原から』@下北沢ザ・スズナリ。 ・・・。これも演劇!? これぞ演劇!! だから演劇はやめられない。初めて観た人や平田オリザ作品を念頭に観にきた人はおそらく「何これ???」と度肝を抜かれることだろう。私もその一人だ。「これはオリザさんに対する冒涜だ!」と言う人もいるだろう。いやいや、三条会関美能留は戯曲に最も誠実な演出家と言うべきでしょう。単なる《出鱈目な演出》ではなく《大胆かつ繊細な演出》だ。色々指摘したい点があるけれども少しだけ。



  《平田オリザ演出作品》


・俳優 = 戯曲を実演する人


・場 = サナトリウムの面会室(現在)/ 死(未来)がチラつく


・舞台空間構成 = 一層

  《関美能留演出作品》


・俳優 = 戯曲を読む人を実演する人


・場 = 学校の教室(過去)⇔ サナトリウムの面会室(現在)/ 死(未来)がチラつく


・ 舞台空間構成 =複数層

『S高原から』のテーマは「生と死」。サナトリウムに入院している患者は「生」に対する感覚が弱まっていて「生/死」あるいは「健常者/病人」の判別が麻痺して曖昧になってしまっている。生死の境界がゆらぐ、その微妙な点をこの作品は描いており、平田オリザ演出作品の場合、鑑賞者は、患者・医者・面会人が交わす会話、しぐさ、間合い等からそれを読み取っていくのに対して、関美能留演出作品の場合は、鑑賞者が視点をどこに設定してよいのか? もうその段階から揺らぎが発生して、その後も展開される舞台の時空間・事物・概念が揺らぎ続けるので鑑賞者はその渦に巻き込まれてしまう。


すごいことやっちゃってます。みなさまもぜひ一度観てみてください(汗。。。


  三条会『S高原から』






ワンダーランド

3人で語る「2010年1月はコレがお薦め!」


※ 鈴木励滋さんが三条会『S高原から』を推薦してます。

(1月14日)

 

《古谷利裕氏のサイン色紙》 ドラえもんは左手で描いて、サインは右手で書いてました。





■ 古谷本の「大江健三郎論」を読む。ぶっちゃけ言及している小説は読まなくてもいいとか言ったけど、読んだ方がやっぱオモロイ。



「ミヒャエル・コールハースの運命」の映画化のために《私》が書いた脚本の第一稿に対してなされた、台詞が《長すぎる、この三分の一にしたい》という要求に従い、当初困惑しながら、それでも書き直しをしているうちに、《自分の文体感覚で整える書き換えとは別の、挑発的な刺戟》を発見し、それについて書かれたくだり。



私は若い時から、出版の意図があるのではないが、エリオットやオーデンの詩句をひとり翻訳してみてきた。まず、逐語訳することを心がける(当然、原詩より長くなる)。それを短くする。自分の散文のスタイルとは別だが、意識して、できるかぎり口語的にする。そのうち、自分のなかから出てくるのではない、新しい響きの声が聞こえてくることがある。私は少しずつではあるが、自分の文体の作り直しをみちびかれた。あれに似ている・・・



ここで、書き換えることが《翻訳》の経験と重ねあわされていることが(よく言われていることであるとはいえ)重要であることは何度でも確認されるべきだろう。その書き換え、置き換えは、その主体が《私》であってはならない。《自分のなかから出てくるのではない、新しい響きの声が聞こえてくる》という出来事として現れるのでなければならないのだ。


何度も繰り返し行われる、想起(語り直し、書き直し)と翻訳(書き換え)が、時間やメディウムや人物を超えて様々な事柄を重ね合わせるという、この小説をかたちづくる基本的な運動を可能にする。共通の本質があるから置き換えが可能になるというよりも、ある事柄から別の事柄へ、あるメディウムから別のメディウムへの置き換えが成立することによって、その新たな関係の出現によって、事後的に、両者を貫く新たな「本質(意味)」がそこに再創造されるのだ。そのような、想起と翻訳が響き合い、混じり合う地点に、固有の外傷を解き放とうとするこの小説の野心が賭けられていると、ひとまずは言ってよいように思われる。


(古谷利裕『人はある日とつぜん小説家になる』青土社 pp.240-241.)

すげぇー、古谷さん冴えてるねー、ニクイねー、ヒューヒュー!!


失敬。


この古谷さんの読みは、すごく気に入っていて、僕自身も同様にちゃんと捉えてました。ただ、それ以外は、、、「ぼくはまだまだ読めてないなー」と言わざるを得ませんでした(汗。。。 出直してきます。








人はある日とつぜん小説家になる

人はある日とつぜん小説家になる


(1月13日)スクープ


小説家の柴崎友香さんのホームページができました。


  おおっ! めっさオシャレやん!!


  柴崎友香ホームページ


(1月12日)観劇デー

 



青年団『カガクするココロ』@こまばアゴラ劇場。 「スゴイ!」とか騒ぎ立てるタイプの作品ではないし、オリザ作品に僕自身が慣れてきたということもあるのだけど、今日、初めて、演劇を観るという行為がぼくの生活のなかにするりと溶け込んできた。駒場東大前までは電車で45分ぐらいかかってちょっと距離があるけれど、それはともかく、部屋のテレビを点けて番組をみるような感覚の、すっかりリラックスした観劇であった。テーマもさることながら、会話の妙技が堪能できて、ほのぼのと楽しく、それでいてシリアスな作品。いい時間を過ごせました。ありがとうございました。みなさまもぜひ!


  青年団『カガクするココロ』





 ※ ワンダーランドで面白い企画が始まってるよ! チェケラ!!!


 3人で語る「2010年1月はコレがお薦め!」


(1月11日) 希望の文学

大江健三郎『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』を読了。



■ 「これって小説?」と言いたくなるような小説をノーベル賞作家が書いてくれるのだから面白い。はっきり言ってキ○ガイとしか思えん。 勇気が湧いてきた!



■「これってビジネス?」と言いたくなるようなビジネスやってみろ! 世界のトヨタァァァァァアアアア!!!!!!!



ケンサンロウが乗り移った。



■ 何言い出すか分からん(汗。。。



寝よ






臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ

臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ


(1月10日)小説のことは小説家にしかわからないのか


佐々木 最初のほうで評論家的読み方に対する違和感の話がありましたが、高橋源一郎さんとの「文藝」の連続対談でもその話が出てきて、そこから昨今の「小説のことは小説家にしかわからないのか」論争が生まれてきて、それこそ田中和生さんと高橋源一郎さんのあいだで一連のやりとりがあったわけですけど、そもそものあの論争の出発点は明らかに保坂さんが作っているという(笑)。あの論争に関してはどのように見てらっしゃいますか。


保坂 論争って無駄だからしたくないわけ。だから巻き込まれたくない。まずね、なんで僕がそんなことを言ったかというと、新潮社の「波」のインタビューでも答えたんだけど、僕がデビューした時に小島さんがね、「小説家の考えてることは評論家にはわからない、編集者にもわからない、新聞記者にもわからない、だから小説家にしかわからない」って言ってて、それを聴いた途端に、あっ、と自由になったわけ。その一言がないと、もっと評論家の言葉がこっちに強く来ちゃう。だから僕のその言葉は実作者へのメッセージなんです。田中和生に言ってるわけではない。とはいえちょっと、僕もいじり好きなところがあるんで、つい悪さをしちゃうんだけど(笑)、それはたしかにショックをもたらす面もあるらしくて、小島さんと僕の「群像」の担当編集者は藤岡さんって人で、今となっては伝説の人で多和田葉子笙野頼子藤原智美、室井光広、僕・・・とか六期連続だかなんかで芥川賞受賞者が全員藤岡さんの担当だったっていう、90年代前半の出来事があって、ただあの人、柄谷行人の逆鱗に触れて「群像」を追い出されたのがね、94年くらい、僕の芥川賞の前なんですよ。その後は「週刊20世紀」とかね、大変なところに行って、今年の一月に定年で退職。ただね、本人は仕事だからやるってだけの人なんです。これは褒め言葉としてね、「仕事だから文学やる」って言って、それがきちんとできる人なんかいないでしょ。好きでやっているはずなのに、全然できてない人ばっかりなんだから。その藤岡さんに、僕が、小島さんがこう言ってたという話をしたら、その時藤岡さんが呆然とした顔をしてね、そうか、小島さんがそう言ったんですか・・・って言ってね、言葉が出なかった。それからしばらくして、私は「群像」から異動になりますと連絡があったんですけど、保坂さんは大丈夫だから私がいなくても心配するなと、それにほんとに小島さんが言った通りだと思う、小説のことは小説家にしかわからないと言ったんです。例えば小説家としてデビューした人が、編集者に見せるでしょ。どこがダメかは編集者にも誰にでも結構わかるわけ。だけど、どう直したらいいかは、本人か、あと数人の小説家にしかわからないんだよね。だから、編集者がここはダメだって言って、こうしたらどうですか?って言われて、そこをそのまま直すようでは、その小説家はダメなのよ。だからほんとにその小説がわかるのは小説家で、編集者よりわかってなければダメだろう、っていうのが建設的な響きとしてはあの言葉にはあるんですけど、でも本当はもっとアナーキーな意味でもあります(笑)。


佐々木敦『文学拡張マニュアル』青土社 pp.336-337.)






小説の自由

小説の自由


小説の誕生

小説の誕生


小説、世界の奏でる音楽

小説、世界の奏でる音楽


文学拡張マニュアル ゼロ年代を超えるためのブックガイド

文学拡張マニュアル ゼロ年代を超えるためのブックガイド


(1月9日)

昨日のトークの続き。佐々木さんと栗原さんとで意見が分かれたのは次の箇所です。佐々木さんの『文学拡張マニュアル』から引用します。



「批評」の衰退(?)が色んなジャンルで暗黙の事実となって既に久しいですが、こと「文学」に関しては、高橋源一郎他の「小説のことは小説家にしか騒動」とか、前に取り上げた「文學界」2008年4月号の大座談会「ニッポンの小説はどこへ行くのか」における高橋源一郎の「評論家の役割がすっかり変わってしまった」発言とか、ダメ押しとも言える事態が続々と勃発していて、プロパーの「文芸評論家」って大変だなあ、、、(中略)


これは別に今に始まったことではなくて、とっくの昔から「文芸批評」は「文芸誌」から(でさえ!)徐々に姿を消しつつあったわけですが、まあ本(小説)を読んでる人自体がどんどん減っているようなのだから、それらを論じた文章を進んで読もうという人間が激減していても何ら不思議ではなく、「文芸批評家」による文章が一冊の単行本として纏められるということが、たとえば大学のセンセとかで教科書としてそれなりの冊数がさばけるという前提でもない限り、相当困難になっているという現状もまた仕方のないことだと言うべきなのかもしれません。前田塁『小説の設計図』のヒットは、それゆえに明るいニュースであったわけですが、これもやっぱり、残念ながら内容(は素晴らしいのですが)以前に、蓮實重彦によるオビ文と川上未映子による「私はこの人と一緒に作家になりました」(だっけ?)というスゴいポップによる力が圧倒的に(とりわけ書店員への訴求力としては)大きかったと言わざるを得ないでしょう。


しかし、読者が居ようが居まいが、書きたければ書いてしまうことは出来る筈ですし、それが刺激的なものであったなら、単に商業的な理由のみによって掲載を頭ごなしに拒絶、という蛮行を文芸誌編集者がするとも思えません。事実、今月の「新潮」には力のこもった評論が三つも載っています。だから「文芸誌」における「文芸批評」のプレゼンスの低下は、外形的な原因によるだけではなく(無論それもおおありではあるのでしょうが)、もしかするとそれ以上に、むしろ「文芸批評家」たち自身の問題なのではないかと思うのです。


でも、これを先の高橋発言と、すぐさま結びつけて考えてしまってはならない。高橋氏なり保坂氏なりが、現今の「文芸批評家」に対して悪罵(というのは大袈裟かもしんないけど)を向けるのは、要するに、書かれた批評の質の低さと書かれるべき批評の不在、の所為なのだから、それに対する正しい応答は、しょうもない出来事を更に矮小化するしかないような論争めいたものではなくて、ただ単に良い「批評」を書くということでしかない。たとえば、我こそは、と思う「文芸批評家」の方々は皆で挙って渾身の「高橋源一郎論」や「保坂和志論」(や「笙野頼子論」)を書いてみてはいかがでしょうか?もしもそれが「文芸誌」に載らないのなら、いっそ「文学フリマ」とかに出しましょうよ。


佐々木敦『文学拡張マニュアル』青土社 pp.70-73.)

これはテン年代の展望として佐々木さんが朝日新聞の取材で答えたこととも繋がる。



質問者:「次の時代、いわく「10(テン)年代」の批評のゆくえは?」


佐々木:「作家論、作品論に回帰していくんじゃないですか。構造の分析は限界にきている。頭のいい人ならだれでも言える『正解』じゃないところで、まだやれることはあると思う」

佐々木さんは、後退戦を正面から受けて立つ、立とうじゃないかというスタンスを昨日のトークでも表明していたのに対して、栗原さんは戦術の変更を示唆していました。



昨日は栗原さんから具体的な発言はなかったのですが、以前話を伺った時には「文学は行き詰まっているし、経済とかそっちを開拓しないとダメだ。だから今、早稲田の若田部昌澄先生のところに通っているし、共著を出す事も考えている」とおっしゃっていて、「文学と経済を繋ぐ論を展開するか、あるいは最悪文学は見捨てる」という文学に対するかなり強い危機意識を語ってくださいました。






さてワレはどうする???


文芸評論をどうやったら読んでもらえるようになるかについては、策を考えないとダメだけど、「作家論」「作品論」はまだまだやれるんじゃないかと思う。


経済に関しては「小説は売れない、批評は読まれない」とばかり言っているのも癪で、だったら「F1にも参戦しない夢のない車なんて、いったい誰が欲しいんだ?」と問いたい。それにこのまえちょっと勉強した程度だけど、金融工学とかやってる連中が、ニーズとか関係なくやりたい放題やってることがまかり通るよのなかに対して腹が立つ。そいつらの動きを牽制するぐらいの知識は習得した方がいいんじゃないかって思う。






文学拡張マニュアル ゼロ年代を超えるためのブックガイド

文学拡張マニュアル ゼロ年代を超えるためのブックガイド


(1月8日)


佐々木敦×栗原裕一郎文芸時評イズデッド ?》トーク



 



起死回生の一発! スカッと爽快! とはいかず、込み入った話にもなったけど、これもトーク。やってみなけりゃ分からない。 もちろん観客としてはアカルイミライを語って欲しいという気持ちもあったけど、ながらく文芸時評を連載されたお二方のことばだけに、そう簡単な話じゃないと、経済でいうところの下方修正? と受けとめた。



 《栗原さんの冒頭の発言》(※ その通りではありません。)


佐々木さん、時評を書いて何か反応ありました? 小説も読まれないのに誰が時評を読むのか? しかも文芸誌では時評はなくて、新聞でなんとか続いているという感じだけど、なんか変な感じですよね。そもそも新聞読みますか?

この発言の色が最後まで抜け切らず、終始どんよりとした空模様。時評を発表する環境があまりにも不自然というか、文芸誌の場合、評しているのはその作家の知人だったりと、時評の機能を排除する方向で事が動いているともとれるし、なにかますます政治的な力が働いていると思わずにはいられない。陰謀説浮上!


それに、そもそも文芸誌を全部読んで時評を書くとなると1週間は時間がとられる。それに対する原稿料は言わずもがな。「誰が読むんだ? という以前に誰がやるんだ?」 という根本的な問題が解決されない!


もう完全に後退戦。






さて、ワレはどうしようか?


とは言っても佐々木さんは今回、文芸時評をテーマにした2冊目の本(『文学拡張マニュアル』)を刊行された訳だし、それと同時に古谷利裕さん、前田塁さんといった方々の三者三様の文芸批評本が刊行された訳なので、プチ・アカルイミライ!とか言って、言った瞬間ちょっと萎えるけど、これらを一人でも多くの人に読んでもらえるよう手を打とうと思う。


例えば古谷さんの批評なんかは、あれはもう完全に小説で、批評だけど小説で、ぶっちゃけ、言及されている小説自体は読まなくてもいいので、古谷本を小説を読むような感覚で読んで欲しいという気持ちもある。「フルヤ=お好み焼き味のイソケン」とか言って、単に濃口のフルヤ、薄口のイソケンと言いたいだけだけど、こんなふうに思って読んでもらうといいんじゃないか? いや、いいのか?


という訳で《文学拡張大作戦フェア》やってます。ぜひ!



 

1月7日現在、日々拡張していきます。本が増えたりPOPが増えたり、サプライズがあったり!お楽しみ!!!





〈盗作〉の文学史

〈盗作〉の文学史


文学拡張マニュアル ゼロ年代を超えるためのブックガイド

文学拡張マニュアル ゼロ年代を超えるためのブックガイド


人はある日とつぜん小説家になる

人はある日とつぜん小説家になる


紙の本が亡びるとき?

紙の本が亡びるとき?


(1月7日)演劇フェアは永久じゃないけどまだ不滅です。


戌井昭人さんご来店。


あかん、戌井さんみると笑ってまぅ。。。人の顔みるなり笑うなんて、なんて失礼な!って重々承知しておるのだが、、、あかんわ。しらふの戌井さんみてても芝居の戌井さんを思い浮かべてしまうわ。あかん(笑・笑)

 鉄割アルバトロスケット





 演劇フェア会期延長して開催中!!!》



 






「エクス・ポ」第2期ゼロ号 入荷しました!!!


 




エクス・ポ」第2期ゼロ号 残りわずか!!!


 


※ 他店舗から大量の注文が入ったのでこんな状況です。追加注文してますのでご安心ください。






 ■ 大好評《イキウメDVD》も継続して販売中です!!!



 






 ■ あしたはトーク


(1月6日)


■ 文芸評論家のMAEDA LOUIS氏がサインをするためにパリからわざわざお越しくださる!


Merci.


 


 色紙文字数最多記録を樹立!!


 しかも拡張してるし、、、


 黄色っぽいのは何かって?


 前田本の145頁を参照のこと!


 サイン本7冊しかないからお早めに!


(フェアやってるのに店頭在庫があと10冊しかない、、、ピンチ!!





  《2010年2月発売》執筆陣が超超超魅力!!!


 ■ 早稲田文学3


 ■ wasebun U30



前田塁さんは カープファンだそうです。



 ちぇっ、タイガースファンじゃねーのかよ。



■ というか前田塁=広島カープといっても過言ではありません。




  《マエダ・ルイス》広島カープヴァージョン!!!!!



 


 






紙の本が亡びるとき?

紙の本が亡びるとき?


(1月5日)

文学拡張大作戦フェア》を決行!



■ このフェアを1月の活動の軸にする。


■ この数日間で、佐々木本、古谷本、前田本にざっと目を通す。


  《前田本》


この本どうこうではなく「次の本を期待してくれ!バッチリ論じてやるからさ」という声が聞こえてきた。この本の収穫は文芸界のオピニオンリーダー前田塁が今現在考えていることを確認できたこと。キンドル問題・「日本語が亡びるとき」問題と村上春樹江藤淳大江健三郎平野啓一郎,etc.

  《古谷本》


古谷節炸裂! 取り上げている作家のセレクトは恣意的かつ的確。大江本をまだ読んでいないので、大江論は大江本を読んでから。

  《佐々木本》


まず小説読解マニュアルとして有用。ぼくも小説を読むようにはなったけど、さすがにここまでは読んでない。佐々木本を読んで、まだ読んだことのない作家で読みたいと思う人が数人出てきたのでこの1ヵ月間で読んでみようと思う。道尾秀介さんもその一人なのだけど、おおっ!直木賞候補になってますねー。


あと、最後の論がオモロー! 青山真治平野啓一郎長嶋有磯崎憲一郎保坂和志 この流れでちゃんと論が通っているのだからメチャオモロー!


■ この1ヵ月小説を読みまくる予定。大江健三郎『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』からスタート!!







文学拡張マニュアル ゼロ年代を超えるためのブックガイド

文学拡張マニュアル ゼロ年代を超えるためのブックガイド


人はある日とつぜん小説家になる

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紙の本が亡びるとき?

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 文学拡張大作戦フェア



臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ

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 阪根タイガース日記2010年1月(その2)


 阪根タイガース


 阪根Jr.タイガース