2011年1月(その2)
(1月31日)壁に耳あり、クロード・チアリ
■ 1月終わり。はや!
■ とある書評サイトに投稿する予定の本を読んでいる。残っていたラスト3本のうち2本を読み終えた。これからラスト。
■ 1月のエンディングを『フランダースの犬』にするか『特捜最前線』にするかで相当迷ったが、『特捜最前線』に決めた。
わーたーしだけのじゅうじかーん♪
(1月28日)土日は新宿へ行こう!
鳥だ!
飛行機だ!
いや
郡司ペギオ-幸夫だ!!!
お向かいの「じんぶんや」を覗いたら《郡司ペギオ-幸夫フェア》をやっていた。面白過ぎる。さすが我がライバル。やるじゃないか!
オットー・レスラーはこう答えた。一者であり社会でもある母親の顔、それこそが仏陀の微笑である。仏陀の微笑は、母親だけではない。それは世界の至るところにあふれる媒介者である。
(中略)
実はわたしはここ2年ほど西表島のミナミコメツキガニの群れ行動を研究し、群れ行動の原動力に相互予期=潜在性の共鳴を実装する必要があると考え、モデルを考案した。潜在性の共鳴において、可能性をもたらす偶然は、群れとしての必然に積極的に寄与することとなる。それは必然と偶然が対立項を成し、両者のうまいバランスの上に現象する描像、カオス(偶然)と構造(必然)の臨界現象という描像とは、根本的に異なるものである。相互予期を実装したモデルにおいてはじめて、群れに一個の身体を見出すことができる。仏陀の微笑が自然科学の言葉で展開されるとき、我々はいよいよ新たな地平へと踏み出すことになるであろう。
(じんぶんやフリーペーパーに収録されている郡司さんのエッセイより)
仏陀の微笑とか、訳の分からないことを真剣に考える人ってすばらしい!
- 作者: 郡司ペギオ‐幸夫
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2010/07/24
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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ジュンク新宿店も負けてませんよ!
触覚は五感の一つではない
(by 河本英夫)
- 作者: 河本英夫
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2010/12/22
- メディア: 単行本
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訳の分からないことを真顔で言う人ってすばらしい!
あと、《郡司ペギオ-幸夫フェア》の選書でおかしな本も並んでいるんで、それは実際に手に取ってみてください。河本さんが《触覚》なら、郡司さんは《味覚》を攻めてます。
その他にポイントとして、ジュンク新宿店でやってるフェアとテーマがけっこうかぶっているんですよ。
生物に対する関心とか!
「平倉圭『ゴダールの方法』のコンテクスト」フェアでも、生物に関する本が選書されています。例えばこれ。
- 作者: バーンドハインリッチ,Bernd Heinrich,渡辺政隆
- 出版社/メーカー: どうぶつ社
- 発売日: 1995/05
- メディア: 単行本
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雪の山中でおこなわれるじっくりとした観察。むちゃくちゃな体力。たび重なる仮説の放棄と再構築。こんなふうに生きたい。
(フェア用フリーペーパーの平倉さんのコメントより)
あと『思想地図β vol.1』にも、こんな論考が載ってますね。
笹原和俊
鳥の複雑なツイートとその進化的デザイン
まだ読んでないのでこれから読みます。楽しみ!
みんな!
土日は新宿へ行こう!
(1月26日)『スピノザの方法』のあとがき
アラザルのama2k46さんが『スピノザの方法』のあとがきがすごくよかったとツイートしていた。本文はまだ通読できていないけど、先にあとがきを読んでみた。すばらしい文章だった。本を書くとはどういうことなのか? でき上がった本はあまりにも平然としすぎている。しかし、本を書くことは決して平らではない。あたりまえのようだけど、なかなか気付かない大切なこと。本に関わる人間として、ずっと胸に刻んでおきたい。
本書のもととなった論文はたしか2001年ごろに書き始められた。一度書き上げられた論文は2004年に行われた事前の審査会で完全否定され、私はもう一度最初からすべてをやり直さなければならなかった。あのときに私は、生まれてはじめて挫折というか、何かを投げ出したい気持ちになった。博士論文の後書きで指導教員にお礼を述べること、とりわけ「先生のお力添えがなければ私はこの仕事をやりとげることはできなかった」と書くことは常套である。私はしかしこの常套を、力を込めて反復せねばならない。あのときに私の気持ちを察し、本当は何と闘うべきなのかを態度で示してくださったのが森山先生である。あのときの森山先生のあの態度がなければ、私はこの仕事を投げ出して、アカデミズムによく見られるタイプのルサンチマンをため込み、大いなる不健康のなかで後の生を生きることとなっただろう。森山先生はその意味で、私の命の恩人ならぬ生の恩人である。森山先生はマダガスカルについて研究されている文化人類学者だが、先生からいただいた指摘は本当に鋭かった。そして前向きであった。その森山先生から何度も繰り返し伝えられ、そして結局乗り越えられなかったのが、「國分さんはスピノザをひとりで読んでいる」という指摘である。本書の結論はいつの間にかこの指摘への応答になっていた。だが、自分ではなおも「ひとりで読んでいる」とはどういうことなのか、また、「誰かと一緒に読む」あるいは「誰かと一緒に考える」とはどういうことなのかがわかっていない。私はおそらくそこに到達しなければならない。
*
最後にデカルトについて述べておきたい。本書で私はスピノザのデカルト批判に注目している。しかし、執筆中に何度も私は、自分はデカルト主義者なのだと思わざるをえなかった。「これで間違いない」と思ってまとめたことを人前で発表し、それを全面的に否定されるという経験をしたとき(しかもそれが何度もあった)、あのときほどデカルトの気持ちがわかったことはない。自分は何か悪霊のようなものに欺されているのではないか、いったい正しさの手がかりはどこにあるのか、私は本気でそれを考えていた。本書に書いたとおり、デカルトのコギトには曖昧さがある。説得の要請がコギト命題を歪めているというのもスピノザの言うとおりである。だが、曖昧になろうとも論理を歪めてしまおうとも、どうしてもああせざるをえなかったデカルトの切迫が私にはわかる気がする。むしろ、だからこそスピノザのような読み方に私は強い解放感を覚えたのだった。しかし、人は簡単にデカルト主義者であることをやめられないだろう。デカルトはいつの時代も批判されていたとある研究者が言っている。それにもかかわらず哲学を志す者がいつも、いつまでも読まねばならないのがデカルトである。いまは懐疑のなかでひとりぼっちになったデカルトの書き物を読みながら、もういちど「ひとりで読んでいる」とはどういうことなのか、「誰かと一緒に読む」あるいは「誰かと一緒に考える」とはどういうことなのかを考えねばならないと思っている。
(1月25日)修正版アップ
タイトル:《ヒデ×サンデル×歌舞伎町ナンバーワン》
※解釈を大きく間違えていたので修正しました。(1月25日)
※千葉さん、すみませんでした。で、でも、あ、あなたを初めて見たときの驚きは、一生忘れることはないでしょう(汗。。。
(1月24日)知的興奮の渦渦渦
タイトル:《ヒデ×サンデル×歌舞伎町ナンバーワン》
(1月23日)
もうトークは終わったんだ
僕たちは、
先のことを考えねばならない
(1月22日)知的興奮の渦!!!!!
大満足です。
ご来場頂きました皆様、ありがとうございました。
レポートは明日改めて書きます。
気分は最高です。
↓↓↓この試合ぐらい興奮しました。
《僕のなかでのベストマッチ》
(1月21日)書物への意志
哲学への意志
文学への意志
佐々木中 渾身の処女小説!!
(1月20日)観劇デー
(1月19日)読書中
- 作者: 平倉圭
- 出版社/メーカー: インスクリプト
- 発売日: 2010/12/01
- メディア: 単行本
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- 作者: 河本英夫
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2010/12/22
- メディア: 単行本
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現代思想2010年10月号 特集=臨床現象学 精神医学・リハビリテーション・看護ケア
- 作者: 木村 敏,村上 靖彦,宮本 省三,河本 英夫,西村 ユミ,松葉 祥一,熊谷晋一郎,綾屋紗月
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2010/09/27
- メディア: ムック
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■ 平倉圭『ゴダール的方法』をとりあえず通読。ラスト「再圧縮」で今一度頭の中を整理。理解度は1,2割程度。自分自身の攻略のポイントをまだ掴み切れていない。が、とりあえず、これでOK。1月22日の「平倉圭×國分功一郎×千葉雅也トーク」でヒントを掴もう。
■ 河本英夫『臨床するオートポイエーシス』は中断。ちょっと前フリが長い。「第5章 障害」と「第6章 リハビリテーション]だけを手っ取り早く読むというのでもよかったかも。
ここに来て実感。
■ 『現代思想2010年10月号 特集臨床現象学』『思想地図β vol.1』いい仕事してます。この2冊はちゃんと起点として機能しています。
■ とりあえず、この2冊にざっと目を通して、あと新書1冊ずつぐらい読んでおけば、今後の展開が可能になるでしょう。
- 作者: 三中信宏
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2006/07/19
- メディア: 新書
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脳のなかの身体―認知運動療法の挑戦 (講談社現代新書 1929)
- 作者: 宮本省三
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2008/02/21
- メディア: 新書
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※『臨床現象学フェア』はブックリストを配布しています。
※ 『思想地図β』はブックガイドが収録されていますし、参考文献も載っているのでノープロブレム。
(1月17日)良書刊行ラッシュ!!!
■ 平倉圭『ゴダール的方法』の読解にてこずっていましたが、ちょっと掴めてきたかも。そもそも彼が掲げているテーマ自体がかなり特殊なのだよ。
・「問いと非応答」
・「見逃し、聴き逃し」
・「受苦と目撃」
なるほど(←うそ)
- 作者: 平倉圭
- 出版社/メーカー: インスクリプト
- 発売日: 2010/12/01
- メディア: 単行本
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■ 平倉圭フェア棚の下のほうがざわざわしています。売れてます。
イヴ=アラン・ボワ+ロザリンド・E・クラウス『アンフォルム』(月曜社)
- 作者: イヴ=アラン・ボワ,ロザリンド・E・クラウス,Yve-Alain Bois,Rosalind E. Krauss,加治屋健司,近藤學,高桑和巳
- 出版社/メーカー: 月曜社
- 発売日: 2011/01/01
- メディア: 単行本
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ついに出ました! 苦節十年(涙。。。
翻訳者の近藤學さんは僕のブログにもすでに登場してます。
以前、私は美術家や美術史家が集うBBS(※13)に書き込みを行っていた。美術の知識がほとんどないので、議論に参加していたかと言えば大いに疑問であるが、ピカソに関する面白い議論があったので、抜粋して紹介しておく。
fig.1 ピカソ
fig.2 ピカソ《海辺の人物たち》(1931年)
fig.3 ピカソ《骸骨と水差し》(1945年)
松井:【超越的な枠組み】※14
確かにピカソの画面には超越的な枠組みが使用されています。偶然かも知れないけどこのページのピカソ画像では、キャンバスの左上の頂点から斜めに引かれた直線がかなりの頻度で使われています。《牛の骸骨のある静物》の窓枠などもそうですね。これらは経験やモデルの観察から得られた要素だとは思えません。そういう意味では、あくまで経験から構成を立ち上げるマティスとは異なっているように思えます。
しかしその効果はブラックとはやはり異なるかも知れません。ブラックのグリットが認識の枠組みを超越論的に考察したものだとすれば、ピカソの枠組みはキャンバスのリテラルなボリュームを際だたせるものかもしれない。「単独性」の問題の延長上にあるメディウムの「特殊性」として捉えられるかも知れません。
さかね: (※15)一つ質問させてください。松井さんが、指摘していたピカソの例の線。
これ絵画の制作過程のどの段階で引かれたと考えられますか?
こういう言い回しが相応しいかどうか、分かりませんが、
序盤・中盤・終盤
の3つで分けたとしたら、どの段階ですか?
[参考文献]
石岡論文(※16)
GK: (※17)石岡君の論文はどういう内容なんでしょうか?
「横レス」させていただくと、ピカソの線は「序盤」からあったのではないかと、僕は考えます。ピカソの場合、制作時間の短さや、或る時期(或る日)集中的に同じタイプの絵をドドドッと描くことを考慮に入れると、とくに背景などはかなり「自動的」に処理しているのではないか。以前土屋さんが、ピカソ自身の中にアーカイブ化された様式がある、というような言い方をされていましたが、モチーフの部分は別として、背景、というか、全体のマトリクスになる部分は、このようにアーカイブ化されたものを引き出して、そのまま描いているような印象があります。あてずっぽうなので、他の方の意見をお聞きしたいところです。
さかね:【石岡論文要約】(※18)
タイトル: [必ずしも信じていないことを信じている時がある。]
物語には「始め」と「中間」と「終わり」がある。そのうち「始め」と「終わり」はコード化されやすい。これはゲームにおいても同様であり、「序盤」と「終盤」については、特に「定石」が成立しやすい。つまり、ゲームにおいて局面が最も複雑化するのは、中盤である。
プレイヤーが取りうる「手」の選択肢の数が最も増大する中盤において、分岐点は至る所にあり、局面の進行を見極めることが最も困難になる。もっとも、正確に言うなら、「序盤から中盤への移行」と「中盤から終盤への移行」という2つの移行こそがゲームにおける最重要点である。熟練者は「どこで定石が終わるのか」(序盤)、あるいは「どこで定石が導入されるのか」(終盤)という特異点のありかを探り、中盤への、あるいは中盤からの移行を首尾良く成し遂げようとする。
ここで話を物語に戻す。物語におけるナラティヴの進行を統御しようとする様々な試みは、レトリックと呼ばれる。レトリックは、認識的機能を担い、出来事の因果性を操作する役割を担っている。
例えば「愚か者が穴に落ちる」「愚か者が崖を飛び越える」という2つの格言について考えてみよう。前者は賢さの必要性を、後者は愚かさの有用性を示すものになる。ここで両者を分岐させるのは、行為の帰結である。しかし、これらが「教訓」として認知されるのは、本来行為の帰結に基づいて事後的になされるはずの「愚かさ」という評価を予め行為者に指定し、時間を「逆転」するというレトリックによる。
レトリックのこのような機能は、ゲームの中盤におけるプレイヤーの状況と対応しているかのようである。だが、レトリックはいわば「中盤における定石」とでも言うべきものを構成することによって、プレイヤーの役割を代行し、免除する。このように定義上のプレイヤーを必要とするゲームとは異なり、「物語のプレイヤー」という表現は、明確さを欠いている。
ここまでは、格言(物語)におけるレトリックについての話であるが、ここで見られるような時間の逆転、時間の反対進行は、可能であろうか。だが、時間を反転させる試みは、レトリックの統御を越えていると言わざるを得ない。なぜなら、ナラティヴ進行の統御可能性それ自体が、時間は「取返しの付かないもの(純粋時間)」として与えられることを条件としているからである。格言(物語)において、行為者たちは局面の進行を様々なやり方で統御しようとするが、そのつどの局面(純粋空間)を恣意的に設定するわけではない。
この純粋時間と純粋空間が最も良く定義されるのは、ゲームにおいてである。例えばチェスにおいて、純粋時間はプレイヤーの「順番」、純粋空間はチェス盤で繰り広げられる「局面」として現れる。これは、物語にとっても不可欠な成立条件である。
したがって「物語のプレイヤー」を「物語内の登場人物」から区別する必要があるだろう。例えば『オイディプス王』における「逆転」と「認知」の瞬間において、自己の運命に打ちのめされるのは、もちろん主人公のオイディプスである。しかし、運命の反転は、読者に前もって提出されている。ナラティヴ進行に真に立ち会うことになるのは、読者なのだ。だが、厳密には読者が進行を統御するわけではない。他方、時間や局面(純粋時間と純粋空間)は、物語におけるプレイを可能にする条件であり、プレイヤーではない。むしろプレイヤーは、物語によって、そのつど構造的に要請される次元に位置している。
まず第一に、純粋時間や純粋空間が物語を与えるのだが、今度は物語がプレイヤーを与えることになる。「物語のプレイヤー」とは、この二重の贈与によって定義される存在者であり、読者、登場人物、さらには作者といった物語に関与する様々な人称性の次元のそれぞれの位置を占めつつも、それらからは区別されるのである。
こうして「プレイヤー」をめぐるゲームと物語の関係の非対称性が再定義されるに至る。「物語のプレイヤー」は、「始め」と「中間」と「終わり」のそれぞれの進行形式に応じて、逆転や認知のプロセスを用いつつ、物語の局面のそれぞれにおいて、様々な出来事を出現させる。こうした出来事は、ときには純粋時間や純粋空間の条件付けに対してすら作用するだろう。
[石岡さんの文章で参照されている文献]
アリストテレス『詩学』(※19)
マルセル・モース『贈与論』(※20)
マリオ・プラーツ『ムネモシュネ』(文中での本書名の紹介はなし)(※21)
ソポクレス『オイディプス王』(※22)
松井:【ピカソの斜線】(※23)ピカソの斜線は、序盤・中盤・終盤のどこで描かれるのかという問題です。
ピカソの絵について考えながら、石岡君のテクストを読むと感慨深いですね。このテクストは、アレゴリーの問題を扱ったアレゴリーなのでしょうか。石岡君がベンヤミン的な方法でテクストを書いたとしたらすごそうですね。ところでピカソの、斜線で描いた枠の問題ですが、いつ描いたのでしょうかね。僕も分かりません。何となく、記録映画で見たやたら描き直しをするピカソのイメージがあって、さらに、いろいろな技法を使いながらも、完成作品はキチンと解決されている(整合性が取れている)という印象から、終盤の定石として描いているのではないかと思っていました。つまり、絵がどんなにバラバラなものになっても、枠さえ描いてしまえば回収出来てしまうような、ちょっと卑怯な一手として考えていました。
しかし、ここでピカソの話をしているうちにちょっと違う印象を持ちました。ピカソはキャンバスの物質感の問題に積極的に取り組んでいたのではないかという印象です。モデルの観察を出発点として絵を描くのではなく、モデルとキャンバスという2つの「対象」が画家の眼前に出発点としてあると考えてみることもできます。そうすると斜線は序盤あるいは中盤の定石としてあるということかもしれません。『社会学と人類学』に並録されたレヴィ=ストロースの「マルセル・モース論文集への序文」には感銘を受けました。
システムやルールを成立させるにはその根源に無根拠な贈与の一手が必要だというのがモースだと思います。アンフォルメルの絵画もいわば無根拠な一手、無根拠な肯定性によって支えられていると考えることも出来ます。
その無根拠な一手を、実体化してしまうモースの傾向を批判したのがレヴィ=ストロースです。レヴィ=ストロースはモースが魔術的なものとした無根拠な一手を、シニフィエに対するシニフィアンの余剰というように記述しなおします。つまり、システムの起源としての一手を外的で超越的なものではなく、構造の二重性からあるいはシステムの内部から要請されるものとして捉え直すということだと思います。
ピカソもアンフォルメルと同様にある種の無根拠性、ブラックボックスを持っている。しかしアンフォルメルの場合はその無根拠な根拠が絵画構造の外部に予め前提されてしまっているのではないかと思います。ピカソの場合はあくまで絵画構造の探求の上に無根拠な一手があるような気がします。
議論は、その後も展開していったのだが、この部分だけでも十分に興味深い内容を含んでいる。
はい。ここに出てくるGKさんがGAKU KONDOさんでした。ちなみにここには出てきませんが、Kというハンドルネームを操っていたのが共訳者のKAJIYAさんなのでした。
こんな議論を延々とやってたんですね。面白かったな〜。
僕も近藤學さんや加治屋健司さん、松井勝正さん、石岡良治さん、上崎千さんといった方々に、学生時代に美術批評の手解きを受けていました。この人たちは本当に面白い! これから続々と出てきますからチェケラ!!!
こういう人たちに感染したせいで稼ぎはさっぱりですが、芸術の素養は身につきました。例えば、写真展で作品解説の大役を務められました。
《写真展》LAND SITE MOMENT ELEMENT・山方伸
とはいえ、
それにつけても
ゴダールというのはすげぇ〜な。(つづく)
- 作者: 平倉圭
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- 作者: イヴ=アラン・ボワ,ロザリンド・E・クラウス,Yve-Alain Bois,Rosalind E. Krauss,加治屋健司,近藤學,高桑和巳
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