日記Z 2018年11月
11月11日(日)
思考のモノサシ
久しぶりにゴルフの朝練を再開した。半年ほどブランクがあったのだけど、そこそこ打てた。ただフェアウェイウッドだけはどうしても打てない。練習を続ければ、いずれ打てるようになるだろうと思っていたけれど、さすがに「こりゃ、ダメだ」と思って、仕方ないからティーアップして打ってみることにした。打てた。ふつうに打てた。ゴルフは下手だけど、日々《気づき》があって面白い。つづけよう。
ただ、過度に練習するのは控えようと思う。長らく運動ができなかったので、いまの自分の体の状態がよくわからない。先日受けた健康診断の結果は良かったけれど、あれは昨年、週3〜4回ジムに通い続けたからだろう。しばらく運動はゴルフの朝練とジムのレッスンと軽めのランニングに留めよう。
休みの日は、運動を済ませれば、他にやることはないし、スケジュールをあまり入れないでぼーっとして過ごそうと思っているのだけど、先日、かつて一緒に書店で働いていた同僚からメールがきた。彼女は地元の福岡に戻って、いまでも書店で働いている。
福岡に来たときは、イベントもできないし、映画や演劇も東京みたいには見られない、それを超える経験っていうのは出来ないなと思っていました。あきらめていた部分が多かったです。でもこちらにきて、漢詩とか、アイヌ語、語学書を詳しい先生に教えてもらいました。毎日、語学の勉強をしています。
多和田葉子さんに、「文字移植」って翻訳の話があります。円城塔さんも、最近「文字渦」って漢詩にからんだ本を出しました。私は普通の小説より、そんな言葉に関する本のほうが、頭に入りやすいことがわかりました。
教えてもらう先生は、政治や哲学書もひととおり読まれてるのですが、般若心経をスペイン語に訳したりして遊ぶ人です。なので影響されて、読書傾向は、まるっきり変わりました。
「地元に帰っても、相変わらず活発に動いているなー」って、彼女のメールを読んで元気が出たし、「久しぶりに本を読める人と話したなー」って気分になった。
ここに出てくる多和田葉子さんというのは、日本語とドイツ語で小説を書いている人で、言語感覚が非常に研ぎ澄まされている作家。いま、日本でノーベル文学賞に一番近い人だと思う。 円城塔さんも小説家だけど、もともと物理の研究者で、小説家デビューする前はプログラマーか何かをやっていたという文系と理系の垣根を越える作家。作風も文体も独特。 佐々木敦さんは、音楽から映画から小説から演劇から何から何まで、表現ジャンルを貫通した批評活動を行なっている人。僕も多大なる影響を受けた。ちなみに、メールをくれた同僚と企画した佐々木さんの連続トークイベントは、立派な本になった。うれしかった。大久保潤さんは、この本の編集者であり、バンドマン。実際のところ、何者かよくわからない.....
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「小説家」の二〇年 「小説」の一〇〇〇年 ササキアツシによるフルカワヒデオ(ele-king books)
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とにかく、面白い人がたくさんいた(笑)。そんな面白い人たちのことを思い出して、元気が出た。それもあって、先週と今週で、久しぶりに本をどっさり買った。読む時間があるかどうかは別として、読みたいなーって思った本をテキトーに買い漁った。
さて、「どの本に喰いつくかなー」って、自分で自分を試すようにして手に取った。歴史関係の本が多いのは、ここ最近の関心事だからで、日本史に関しては戦前まで読んだから戦後は、まぁ、もういいかなって感じで喰いつかず、歴史の関心は世界史のほうに移っていて、「ヨーロッパは、なんであんなに戦争ばっかりやってきたんだ?」という経緯を探ろうと思って、ヨーロッパ史の概要から抑えようと。
ただ今回、意外にも一番喰いついたのは哲学の本だった。國分功一郎さんの『中動態の世界』
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哲学書というのは、扱っているテーマが大きすぎて、いま会社で働いている自分との距離がなかなかうまく取れなくて、読みづらいのだけど、國分さんの思考は、今のぼくの関心事と非常に近い軌道を描いていた。
どちらかと言えば、前作『暇と退屈の倫理学』の方が、「働く」ということについて問うていたので、僕の関心事により近かったのだけど、その際に問われていた「自由」という概念
が、本作『中動態の世界』では「意志」についての探究へと、思考がさらに一歩も二歩も前へ進められており、非常に興味深い内容になっている。そして何よりも、
頭のいい人の文章を読むというのは、気持ちがいい。
僕にもお手本にしている人、
思考を展開する上で《モノサシ》にしている人
が何人かいる。
僕の読書経験でいえば、まず浪人時代に予備校のテキストで小林秀雄や外山滋比古らの文章の一部を読まされて、「面白い文章もあるんだなー」って知って、大学に入ってから勉強会に顔を出したり、本屋に入り浸ったりして、哲学の本に手を出して、そこで初めて浅田彰や柄谷行人や蓮實重彦らの文章と出会った。
彼らの文章は基本的に難しくて読めない。ただ当初は内容についていけなくて読めないという感じだったのだけど、読書経験を積むうちに分かってきたのは、思考のタイプが自分と違うので読めないという文章が多々あることだった。ちなみに浅田彰さんの『構造と力』と蓮實重彦さんの『表層批評宣言』は今でも読めない。
そんななか、あるとき読めるようになり、感銘を受けたのが柄谷行人さんだった。
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「こんなに分かりやすい文章があるのか!」
と思ったほどで、自分が書ける書けないは別にして、お手本として定期的に読んでいた。
拙文
柄谷さん以外にも大江健三郎さん、保坂和志さん、あと建築家の難波和彦先生の文章は定期的に読んでいた(読んでいると書きたいが最近は読めていない)。さらに僕と同世代や僕よりも下の世代の哲学者や研究者が出てきたので、そちらもちょいちょい読んでいる。東浩紀さんをはじめ、宇野常寛さん、千葉雅也さん、中野剛志さん、最近では落合陽一さんかな...
そのなかでも、ぼくがもっともお手本にしており、
《思考のモノサシ》としているのが、國分功一郎さんなのだ。
僕のなかで、文系と理系の定義があって、それは、
文系・・・言葉で思考できる人
理系・・・数式で思考できる人
僕の場合は、大学は理系だけど、そもそも理系への進学の動機が、英語と国語ができないからで、しかも、いざ受験勉強を始めたら物理と数学ができなくて苦しんで、最後は公式を暗記してなんとか大学に引っ掛かったという感じだから、実際のところ理系でも文系でも何でもない。ま、大半の人が似たような感じじゃねーの。
そんななか、本当に文系、理系と言える人がわずかにいて、僕のいまの職場にも理系と言える人が数人いる。彼らと話していると面白いし、なんと言っても実際に仕事ができるよね。
そして、文系といえる人についてだけど、僕が忘れられないエピソードがあって、それは出版関係者の勉強会に出たあとの飲み会で、
「第二外国語は何?」
って、しょっぱなに聞かれたことだ。
「はっ? 第一外国語もろくに話せないのに、第二外国語もくそもねーよ!」
と心のなかで叫んだし、
「いや〜、僕、理系なんで、強いて言えば、数学かなー」
なんて、答えられれば良かったのだけど、数学できないし、絶句してしまった。
それは置いといて、國分功一郎さんという人は、文系のなかの文系といえる人で、語学に長けている。世間一般で言われるTOEICで満点とかそういうレベルではなくて、英語はもちろん、フランス語の文献の翻訳も多数こなしているし、文法オタクというか、文法が好きで好きでたまらなくて、文法書をまるごと暗記しているような変人だ。
「英語で話しているときと日本語で話しているときは別人になる」
というのを英語が話せる人に聞いたことがあるけれど、それはわかる気がする。言葉の構造が違うから思考も変わってくるだろう。また英語と日本語の比較だけではなく、ヨーロッパやアフリカといった地域や言語の違いによっても思考が異なると思われるし、さらにラテン語や古典ギリシア語といった時代の違いによっても思考が異なってくると思われる。誰か、こういった観点で思考を展開してくれないかなーって思っていたら、國分さんが『中動態の世界』でやってくれた。國分さんは次のように語っている。
本書のテーマに取り組むにあたって大きなハードルが二つあった。一つはギリシア語である。哲学の観点から中動態に取り組むためにはギリシア語の知識は不可欠であった。私は覚悟を決めて、毎週、東京神田のアテネフランセに通った。古典ギリシア語の手ほどきをしてくださった島崎貴則先生の授業は、自分が忘れてしまっていた、語学を学ぶことの喜びを思い起こさせてくれるものだった。授業を受けるなかで私は何度も言語そのものについて考える機会を与えられた。そうして得られた知見は直接本文に生かされている。
もう一つはスピノザ哲学であった。中動態の概念的イメージは積極的なものでなければならなかった。「能動態でも受動態でもない」にとどまる説明に私はうんざりしていたし、実際、本文でも書いたようにそこに安住するのではかえって能動と受動の対立を強化することになってしまう。スピノザ哲学が中動態的なるものであることはすでに分かっていた。だから、そのなかで最も積極的な意味をもつ「自由」の概念を定式化することで、中動態の概念的イメージを積極的なものにできるだろうと考えたわけである。
だがこれには実に難儀した。そもそもスピノザ哲学を勉強しながら、ずっと腑に落ちずにいたのがスピノザにおける「能動」と「自由」の概念であった。中動態というテーマに取り組みながら、私は十数年来の自分の課題に正面から突き当たることになった。
手助けは思わぬところからやってきた。2015年4月から1年間、私は研究休暇でロンドンに滞在していたのだが、その間、イタリアのグラードという小さな町で行われる哲学のサマースクールを見つけて、それに参加することにした。イタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベンの講義を聴くためである。
「行為の批判」と題されたその講義を聴きながら、私はアガンベンの関心が自分の関心と大きく重なっていることを知って非常に驚いた。興奮した私は、自分は中動態の概念に取り組んでおり、いまそれについて本を書いていると話しかけた。するとアガンベンは自分の本のここを参照してみなさいと親切な指示を与えてくれるとともに、励ましの言葉までかけてくれた。
スピノザ哲学を中動態の観点から論ずるアガンベンの視点はスピノザについての私の理解を深めてくれるものだった。「中動態の概念についてはまだまだたくさんやるべきことがある」というアガンベンの言葉はその後、強い心の支えになった。
もう一つ、ロンドンではフランス留学時代の恩師、エティエンヌ・バリバール先生の講義を受けるつもりだったのだが、何という幸運であろうか、その講義はスピノザの『エチカ』についてのものだった。
口頭であるにもかかわらず尋常ではない長さのフレーズを扱う先生の語り口は健在であったがそれを懐かしく思い出す一方、私はバリバール先生が『エチカ』のラテン語原文をスラスラと暗唱する姿に本当にしびれてしまった。格好よかった。
これは何としてでもまねしなければならない。家に帰ると、早速私は、『エチカ』のラテン語原文をノートに写しながらキーフレーズの暗記を始めた(さほど身についてはいないのだが)。もちろん、机の前に座って先生のまねをしながら、"Veritas norma sui et falsi est"などと一人で台詞のように語るのである。
こんなことがきっかけだったのだが、ラテン語原文の暗記を続けながら私は、『エチカ』をラテン語で読むことの重要性に再度気づかされたのだった。ラテン語原文を何度も読むことで、それまでどうしてもうまく理解できなかった論点を突破することが可能になった。翻訳で読んでいたならば、ラテン語の動詞の態のことなど気づかなかっただろう。やはり、
「読めよ。さらば救われん」
こそが研究における真理である。
大変な労作。心して、読み続けよう。
11月4日(日)
人間力のリハビリ
今日は本当はゴルフのラウンドに行きたかったのだけど、今日休めるかどうかが事前にわからなかったし、ゴールデンウィークから仕事が忙しくなって、以来ほとんど休んでなくて、週末のゴルフの朝練もながらくやっていなくて、先週やっと再開したというところだったのでやめた。
ゴルフでドタキャンしたら友だちを失うし.....
ラウンドはキャンセルしたけど、結果的に今日は休めることになった。そして今月は土日は休むことに決めた。会社の方針でもあるし、自分自身ちょっと休んだほうがいいという気持ちでもあるから。
今まで休んでないといっても、1日も休んでないというわけではなく、1日24時間働いているわけでもないので死にはしないけど、いろいろとバランスがおかしくなっている。仕事だけしていて、ほかのことはほとんど何もやっていない。掃除したり、洗濯したり、ご飯つくったり、運動したり、本を読んだり、人と会ったりしていないとだんだん人間っぽくなくなってくる。生ける屍というか.....
というわけで、
土日は人間力を取り戻すためのリハビリに専念。
(1) 映画
まずはDVDを鑑賞。ここ最近聴いている音楽の流れで、キャロル・キングからのアレサ・フランクリンからの
よくもまあ、こんなデタラメなストーリーの作品に、あれだけのキャストが集結したものだ。
アメリカのこういうバカなところが好き!
(2) 演劇
ブルース・ブラザーズを観ていたら、なんだか演劇を観たくなったので調べてみたら、ちょうど、あっ! ケラさん!
ケラさん、紫綬褒章受賞おめでとうございます!
そう、ケラリーノ・サンドロヴィッチさんの作品が公演中だったので、当日券を求めて、
いざ下北沢!
以前2時間前に行って当日券を取り損ねたことがあったので、今回は配布の2時間30分前に劇場へ。2番目だった。チケットをゲットするまでの時間、本を読みながら、時々うとうとしながら階段に座って過ごす。久しぶりに、ぼーっとできて、いい時間だった。
今回の作品は『修道女たち』というタイトルで、その名のとおり、女性陣がメインで構成されていて、男性陣はほとんど出演していなかった。ちょうど《ナイロン100℃》の三宅弘城さんと大倉孝二さんがブルース・ブラザーズみたいな感じで、久しぶりに観たいなって思ったのだけど、今回は出ていなかった。残念。それで、男性陣ではみのすけさんが出ていたけど、彼はブルース・ブラザーズでいえば、ナチ党役のヘンリー・ギブソンって感じかな(笑)
ま、《ナイロン100℃》は、松永玲子さんが出演してさえいれば、男性陣はどうでもいいのだけど、今回の女優陣は、みんなよかった。なんというか、犬山イヌコさんにしろ、伊勢志摩さんにしろ、語る間合いが絶妙だった。
お笑いなんかが特にそうだけど、同じ内容を語るにしても、間合いや口調によって、笑えたり笑えなかったり、心に響いたり響かなかったり、ぜんぜん変わってくるから、やっぱり俳優ってすごいなって改めて思った。
あ、それから高橋ひとみさんが舞台に出ているのを久しぶりにみたけれど、
なんで女優さんは、テレビで観るよりも舞台で観るほうが全然いいんだろう?
緒川たまきさんにしろ、鈴木杏さんにしろ、伊藤梨沙子さんにしろ....
作品について
『修道女たち』という作品は、実は修道女が出てこない! なんてことはなくて、修道女たちを取り巻く群像劇なのだけど、その修道女たちの存在がふわんとしているというか、ふわんというのは表現が悪くて言い得てないのだけど、彼女たちの実態がよくわからない。
彼女たちは、カソリックなのか? プロテスタントなのか?そもそもキリスト教徒なのか? だとしても宗派としては異端だよなー?っていうか、ここはいつのどこよ? 国王がいるようで、魔女狩りっぽいことをしているふうなので、ヨーロッパの中世かな? でも中世に列車はないしなー
???
と言っといてなんですけど、とても不思議なことに、観劇していてまったく違和感がありませんでした。舞台で演じられている世界をごく自然に受け入れていました。
なぜだ?
作品をつくる上で、2つのアプローチがあると思うのだけど、1つは史実を詳細に調べて、時代や場所や人物をほぼ特定できるような形で提示するもの。もう1つは、史実等はまったく関係なく、想像だけでつくってしまうもの。
『修道女たち』は前者でも後者でもなかった。
だからこそ、前者以上にヨーロッパの中世ってどんな感じだったっけ? また後者以上に想像力を掻き立てられて、彼女たちはアイドルグループみたいだなー、あのグループのあの子とあの子が実はできてたりしてとか、よからぬ想像を勝手にしてしまった...
申し訳ございません。悔い改めます。
観劇後、本屋に行って、世界史の本を購入。
若い読者のための世界史(上) - 原始から現代まで (中公文庫)
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若い読者のための世界史(下) - 原始から現代まで (中公文庫)
- 作者: エルンスト・H・ゴンブリッチ,中山典夫
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2012/04/21
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(3) 漫画
続いて漫画も購入。
友だちに勧められて読んだ前作『刻刻』が面白かったので買ってみたら、これも止まらなくなった。
堀尾省太さんの物語力はネ申ってる。