日記Z 2018年12月





12月30日(日)

年末年始はゴルフ、映画鑑賞、読書とゆっくり栄養補給したいと思います。購入したのはこの三冊。










アメリカ南部には以前から興味があって、それは「南部はアメリカのパワーの源」だと思うからで、これまで、フットボール、宗教という観点からアメリカを見ていたのだけど、あとアメリカの音楽についても知りたいと思っていた。



そして今日、本屋をぷらぷら歩いていたら、ちょうど良い本がみつかったので、さっそく買って、読み始めた。すごく面白い。



里中: ペンキも塗っていない掘っ立て小屋に生まれ、小麦粉用の袋を縫い合わせた下着をつけ、生きるために窃盗をくりかえしていた少年時代。しかし、そこから身を起こしたJBはいつも自信満々でした。どのインタビューを見ても、その自信に揺るぎがない。ワニのようにニカっと笑う表情にも自信がみなぎっている(笑)。


バーダマン: 黒人文化では、自画自賛(brag)は自己主張のあらわれだし、大言壮語(boast)はユーモアとして好意的に受け入れられます。JBはそれらを体現していました。また、派手なふるまいや見せびらかしは白人文化の枠組みでは品のない行為と受けとめられることが多いけど、黒人文化では見せびらかしは「ショーボート」(showboat)と呼ばれ肯定的に評価されます。


里中: 黒人民衆の精神的リーダーだという自覚もあった。キング牧師が亡くなったときは、ラジオをつうじて黒人たちに平静を呼びかけましたね。


バーダマン: 公演先のボストンでは、急きょTV中継をすることになり、「家にとどまって俺のショーを観るように」と呼びかけ、危惧された蜂起をおさえた。全米各地で暴動が起こったけど、JBの呼びかけを聞いた地域だけは大きな混乱は生じませんでした。


里中: 極貧から這いあがり、黒光するグルーヴでソウル・ミュージックの星となったJB。彼は黒人社会の希望の星でもあった。なんといっても、Say it loud   I'm Black and I'm proud.(大声で言えよ、黒人であることを誇りに思っているって)ですからね。JBのファンクには、つねにむきだしの情熱がほとばしっていた。〔Get up (I Feel Like Being a)Sex Machine〕では、「ゲロッパ」(Get up)と「ゲローナップ」(Get on up)のやりとりだけで見事なグルーヴ感をつくりあげている。トロンボーンのフレッド・ウェズリー、アルト・サックスのメイシオ・パーカーなどのバックアップ・メンバーも素晴らしい。


バーダマン: ファンクが目指すものは「連帯感」。パフォーマーとオーディエンスのあいだでコール&レスポンスをやるけど、あれも魂(ソウル)の連帯を確認している。





ジェームス・M・バーダマン、里中哲彦『はじめてのアメリ音楽史ちくま新書pp.196-197.








みなさま、良いお年を!





12月23日(日)

ハロー、メリイ、クリスマアス。




明日と明後日は仕事なので、クリスマスという気分に浸れるのも今日しかないか。とは言っても、ケーキを食べたい年頃でもないし、みんなでワイワイという質でもない。ひとりの時間をつくって静かに本でも読んでいたい。



さて、クリスマスにちなんで何を読もうかと考えた。太宰にしようか安吾にしようか。この二択がすでにおわっているのだが、後者を選んだことで、さらにというか、絶望的に終わった感がある。



小説は、意味を持たせない方がよいと思うが、安吾ほどの意味のふくませ方、理屈っぽさは、読んでいても鼻につかなし、すぅーっとこころに落ちる。それにつけても、安吾の小説に出てくる女というのは、なぜこうも怖いのだろうか。




桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)






桜の森の満開の下



桜の花の下へ人がより集まって酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖ろしいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。


女はそこにいくらかやる瀬ない風情でたたずんでいます。男は悪夢からさめたような気がしました。そして、目も魂も自然に女の美しさに吸いよせられて動かなくなってしまいました。けれども男は不安でした。どういう不安だか、なぜ、不安だか、何が、不安だか、彼には分からぬのです。女が美しすぎて、彼の魂がそこに吸いよせられていたので、胸の不安の波立ちをさして気にせずにいられただけです。


なんだか、似ているようだな、と彼は思いました。似たことが、いつか、あった、それは、と彼は考えました。アア、そうだ、あれだ。気がつくと彼はびっくりしました。


桜の森の満開の下です。あの下を通る時に似ていました。どこか、何が、どんな風に似ているのだか分かりません。けれども、何か、似ていることは、たしかでした。彼にはいつもそれぐらいのことしか分からず、それから先は分からなくても気にならぬたちの男でした。


女は大変なわがまま者でした。


女は櫛だの笄だの簪だの紅だのを大事にしました。彼が泥の手や山の獣の血にぬれた手でかすかに着物にふれただけでも女は彼を叱りました。まるで着物が女のいのちであるように、そしてそれをまもることが自分のつとめであるように、身の廻りを清潔にさせ、家の手入れを命じます。その着物は一枚の小袖と細紐だけでは事足りず、何枚かの着物といくつもの紐と、そしてその紐は妙な形にむすばれ不必要に垂れ流されて、色々の飾り物をつけたすことによって一つの姿が完成されて行くのでした。男は目を見はりました。そして嘆声をもらしました。彼は納得させられたのです。かくして一つの美が成りたち、その美に彼が満たされている、それは疑る余地がない、個としては意味をもたない不完全かつ不可解な断片が集まることによって一つの物を完成する、その物を分解すれば無意味なる断片に帰する、それを彼は彼らしく一つの妙なる魔術として納得させらたのでした。


男は山の木を切りだして女の命じるものを作ります。何物か、そして何用につくられるのか、彼自身それを作りつつあるうちは知ることが出来ないのでした。それは胡床と肱掛でした。胡床はつまり椅子です。お天気の日、女はこれを外へ出させて、日向に、又、木陰に、腰かけて目をつぶります。部屋の中では肱掛にもたれて物思いにふけるような、そしてそれは、それを見る男の目にはすべてが異様な、なまめかしく、なやましい姿に外ならぬのでした。魔術は現実に行われており、彼自らがその魔術の助手でありながら、その行われる魔術の結果に常に訝りそして嘆賞するのでした。


(中略)


彼は模様のある櫛や飾のある笄をいじり廻しました。それは彼が今迄は意味も値打ちもみとめることのできなかったものでしたが、今も尚、物と物との調和や関係、飾りという意味の批判はありません。けれども魔力が分ります。魔力は物のいのちでした。物の中にもいのちがあります。


桜の森は満開でした。一足ふみこむとき、彼は女の苦笑を思いだしました。それは今までに覚えのない鋭さで頭を斬りました。それだけでもう彼は混乱していました。花の下の冷たさは涯のない四方からどっと押し寄せてきました。彼の身体は忽ちその風に吹きさらされて透明になり、四方の風はゴウゴウと吹き通り、すでに風だけがはりつめているのでした。彼の声のみが叫びました。彼は走りました。何という虚空でしょう。彼は泣き、祈り、もがき、ただ逃げ去ろうとしていました。そして、花の下をぬけだしたことが分かったとき、夢の中から我にかえった同じ気持ちを見出しました。夢と違っていることは、本当に息も絶え絶えになっている身の苦しさでありました。


けれども彼は女の欲望にキリがないので、そのことにも退屈していたのでした。


あの女が俺なんだろうか? そして空を無限に直線に飛ぶ鳥が俺自身だったのだろうか? と彼は疑りました。女を殺すと、俺を殺してしまうのだろうか。俺は何を考えているのだろう?


彼はふと女の手が冷たくなっているのに気がつきました。俄に不安になりました。とっさに彼は分かりました女が鬼であることを。突然どッという冷たい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。


男の背中にしがみついているのは、全身が紫色の顔の大きな老婆でした。その口は耳までさけ、ちぢれた髪の毛は緑でした。男は走りました。振り落そうとしました。鬼の手に力がこもり彼の喉にくいこみました。彼の目は見えなくなろうとしました。彼は夢中でした。全身の力をこめて鬼の手をゆるめました。その手の隙間から首をぬくと、背中をすべって、どさりと鬼は落ちました。今度は彼が鬼に組みつく番でした。鬼の首をしめました。そして彼がふと気付いたとき、彼は全身の力をこめて女の首をしめつけ、そして女はすでに息絶えていました。


彼の目は霞んでいました。彼はより大きく目を見開くことを試みましたが、それによって視覚が戻ってきたように感じることができませんでした。なぜなら、彼のしめ殺したのはさっきと変わらず矢張り女で、同じ女の屍体がそこに在るばかりだからでありました。


彼の呼吸はとまりました。彼の力も、彼の思念も、すべてが同時にとまりました。女の死体の上には、すでに幾つかの桜の花びらが落ちてきました。彼は女をゆさぶりました。呼びました。抱きました。徒労でした。彼はワッと泣きふしました。たぶん彼がこの山に住みついてから、この日まで、泣いたことはなかったでしょう。そして彼が自然に我にかえったとき、彼の背には白い花びらがつもっていました。


そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。四方の涯は花にかくれて奥が見えませんでした。日頃のような怖れや不安は消えていました。花の涯から吹きよせる冷めたい風もありません。ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。


桜の森の満開の下の秘密は誰にも分かりません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。






孤独自体.....





合掌。





合掌というのは、クリスマスとはちょいと違うような気がする。やはり今日読むのは、太宰にしておくべきであったか。




安吾も悪くなかったが、もうちょい、軽やかで、温もりのあるほうがよかったかな 汗。。。





ハロー、メリイ、クリスマアス。













12月16日(日)

ロナウドとエマちゃん






昨晩は仕事で遅くなったので、無理をせずにゴルフの朝練と朝ランをキャンセル。朝は体を休めて、昼から所用を済ませて、夕方からジムのレッスンに参加。ジムでは、モチベーションをあげるためにサッカーのユニフォームを着てる。いわゆる成りすましってやつね。最近のお気に入りは、



C.ロナウドのユーベ・ユニ!



スタジアムの興奮そのままにテンションあがる〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!



ユーベに移籍しても、あいかわらずの活躍っぷり!



あっぱれ!



スタジアムの空気を一瞬で変えてしまう、C.ロナウドのようなスーパースターが、2019年に、我がタイガースにも出現することを願っている!



SIUUUUUU!!!!!!






そうそう、サッカーと言えば、最近、ロナウド以上に、僕に元気をあたえてくれているのが、



スタジアムで歌うエマちゃん!



大観衆をまえに物怖じするどころか、こぶしまできいている 笑






トランプは、アメリカの真のパワーを捉え違えているのではないか?



エマちゃんに、あっぱれ!!!






12月9日(日)

レーニン






土日をフルに休むというのが難しい状況にまたなってきたので、今日まとめてトレーニング。ゴルフ朝練からのジムで朝ラン7km(10km走りたかったが無理だった...)、夕方にもう一度ジムに行って、筋トレ系のレッスンと格闘技系のレッスンに参加。筋トレ系のレッスンだけでもけっこう汗をかいた。この2週間ほど、ほとんど筋肉を使ってないから無理もない。



本当は、以前のように生活のリズムを整えて、朝型に戻して、仕事帰りに週2,3回ほど適度な運動をするようにしたいのだけど、それは、ま、夢のまた夢だな。






キングダム




遅まきながら《キングダム》にはまってます。。。





中国の歴史に興味があって読み始めたのがきっかけだけど、そんな堅苦しいこと関係なく、とても面白い。しかもスマホで読めるから、わざわざ漫画喫茶にこもって読まなくても次々読めてしまう。



不思議なもんで、本は紙じゃないとぜんぜん頭に入らないからダメなのだけど、マンガはスマホの方が断然よみやすい。ま、月末の請求額がおそろしいことになっているというのは疑う余地がないのだが....



これくらいの散財はゆるせ!



でも、ちゃんと元が取れるというか、



《キングダム》の信


《ワンピース》のルフィ


ドラゴンボール》の悟空

自分のなかに冒険王がいるというのは、心理的にプラスになる。



ただただ忙しいだけの単調な毎日で、



「えっ、今年ももう終わるのか! 」



というのをここ数年くり返しているし、人生ってそういうものなのだろうけど、そんな退屈な毎日に活気をもたらしてくれるというか、自分のなかに冒険王がいると、物事に前向きに取り組めるようになる。



コラムニストのブルボン小林氏は云う。



漫画を読むという行為について確実に言えることが一つあって、それは間違いなく読者が平和だということだ。


戦場で銃弾飛び交う中、漫画本をめくる兵士はいない。殺人鬼に追われる最中に漫画をめくる人もいない。漫画を読む姿のイメージは、かぶき揚げでもかじりながら寝転がっている感じだろう。


(『ザ・マンガホニャララ』より)

まったくその通り!



この名言を伊藤潤二作品を紹介する枕にするところが、これまた心憎いのだが、



いやー、まー、マンガを読んでいるときというのは本当に平和なんですよ!



家でも電車のなかでもカフェでも、いつでもどこでも。



ほんとに平和!










しかしながら《キングダム》で、僕にいちばん元気を与えてくれていた麃公さんがさきほどお亡くなりになりました。残念だ(涙)。



いい顔をしていた。ほんとに!





合掌






ザ・マンガホニャララ 21世紀の漫画論

ザ・マンガホニャララ 21世紀の漫画論




12月2日(日)

テキトーが死んでる




仕事がまた忙しくなってきて、体調を崩して喉をやられた。1ヶ月くらい咳がとまらなくなるという例のアレだ。毎年疲れがたまってくると喉が炎症をおこして咳で夜も眠れなくなるので、今回は「またきやがったな!」と咳が出はじめて3日目くらいに、早々に医者に行った。先手必勝という訳である。



医者から薬をもらい、「よし、これでもう大丈夫!」と安心しきっていたのだけど、「あれ?おかしいなー?」、なかなか治らない。とうとう鼻水もとまらなくなってきたので、たまらずもう一度医者に行った。



「あらら、のどが腫れてきちゃったねー、薬よわかったかー、あはは....」



あはは、じゃねーよ。まったくよー



でも、ま、医者の考えもわからなくはない。こちらが早めに仕掛けたものの、医者は「まだまだ症状は軽い、まずは様子を見よう」と思ったのだろう。その後、お互いに意気投合? 予想通り、症状はだんだん悪化してきた。そして、はっきり悪いと分かったところで、「やっぱりダメだったかー」と言わんばかりに、本命の薬を処方してきたのだった。



まんまと医者のペースに嵌められた訳だが、結果的にはこれがベストだったのだと思う。こちらとしては、「1回でガツンとやっつけてくれ」と思ってしまうものだけど、少々時間をかけて、容態を見ながら、対応を判断する。やはり無理して治そうとするのが一番悪い。



今日は、観劇して(iakuよかったです!)、ジムのレッスンにも参加。体調も回復してきて、生活のペースもつかめつつある。





読書





そんなこんなで、時間がかかってしまったけれど、國分功一郎さんの『中動態の世界』を読了。いい本だった。特に最後の2章は、読んでいて行間から國分さんの熱い息遣いが感じられるほどのパワーがあった。



本論では「意志」についての探究からはじまり、最後「本質」を論じるところまでたどり着く。前作『暇と退屈の倫理学』から、僕は「仕事とのキョリの取り方」を学んだ。そして本作『中動態の世界』から、僕は「仕事の質」とは何かを学んだ。とりわけ「コナトゥス」なる概念がすこぶる気に入った!








『中動態の世界』はまだ僕の頭のなかに定着していないので、思考が展開するのはまだまだこれから。「意志=過去との断絶=ゼセッション=近代」、あと石岡良治さんの議論だけれども「意志/意欲=本質=芸術意欲(kunstwollen)=芸術学=ウィーン学派」との関連も調べたいと思う。



ま、これは死ぬまで考えつづけるようなことだから置いといて、この機会に読み返した『暇と退屈の倫理学』について、以前じぶんが書いた原稿がなかなか面白かったので振り返ってみようと思う。









テキトー論(2012年・秋)




昨年書店員をやめて工場員になったのをきっかけに始めたこの日記? 連載?も3回目となりました。初回(『アラザル6号』所収)では、横光利一『機械』に触発されるかたちで工場員としてのモチベーションを確認し、文学としての工場員(カッコイイ!)なる方向性を探っているかに思われました。が、その半年後の2回目(『アラザル7号』所収)では期待に反してというべきか、大方の予想通りというべきか、文学色が日に日に褪せていき、とうとう本を読まなくなり、「いま、TOEICテストにはまっています!」と書きました。そして、さらに半年が過ぎました。



さてさて、3回目です。えーと、まず最初に報告しておきましょう。TOEICの勉強は飽きてやめました(笑)。すると今度は、また小説を読むようになりました。主に読むのは、古典ではなく同時代の作家です。やはり工場で働いていると残業が多く平日はほとんど働いて食べて寝るだけの生活になり、本を読むのは週末のみです。このように時間的な制約がきついのと、あと生活が単調になりがちなので、体というよりも心が、何か別の人生を自分の人生の一部として取り込みたいと要求してくるのです。だから人生の歩調を合わせやすい同時代の作家を好んで読んでいます。言ってみればサプリメントのようなもので、これは本物の読書とは言えないかもしれませんが、心が強く求めてくるのだから仕方ありません。



よく読むのは、保坂和志柴崎友香阿部和重川上未映子古川日出男長嶋有戌井昭人、前田司郎、福永信などなど。他の作家も読みたいし、たまに読むこともあるのですが、最近はどの作家も新刊の出るペースが速いので、あまり手を広げず同じ作家を続けて読むことにしています。彼、彼女らは独自の文体を持っていて、知識云々ではなく、軽い言葉で言えば、空気を僕に運んでくれますし、大げさに言えば、世界を僕に与えてくれます。なかでも長嶋有戌井昭人の小説は、出てくる人や流れている時間、これはもう軽い言葉ではなく、まさに空気が醸し出されていて、あれよあれよという間に僕を包み込んでしまいます。そんな期待を持って、戌井昭人の新作小説『ひっ』を読んだのでした。





鉄割アルバトロスケット




戌井昭人さんは小説家でもありますが、劇作家・俳優としての方が有名かもしれません。《鉄割アルバトロスケット》という劇団?の座長?、なんだか全然わからなくて、もうめちゃくちゃですが、好きです。はい。












○『ひっ』について語る理由




今回、これから『ひっ』について語ろうと思うのですが、それには3つの理由があります。



1つ目は、



『ひっ』の著者である戌井昭人さんと哲学者の國分功一郎さんのトークイベントを実現したい!



からです。「なぜこのふたりなの?」という疑問については、以下を読めば分かってもらえると思います。僕自身は書店員をすでに辞めたのですが、まだ書店員気質が完全には払拭されていないようです。現役の書店員で「なるほど、面白い!」と賛同してくれる方がいらっしゃれば是非開催をお願いします!



2つ目は、『ひっ』を読んだときの意外な第一印象でした。



「あれ? これ、うまく書けてない。僕からみたらテキトー極まりない戌井さんが全然テキトーに書けてない!」



『ひっ』も戌井さんの以前の作品である『まずいスープ』や『ぴんぞろ』と同様に、とある人物の魅力がモチーフとなって、その魅力に戌井さんが惹きつけられるかたちで小説が書かれています。これはもう戌井さんの当初からの一貫した創作スタイルと言えるでしょう。人柄、雰囲気、またその人が巻き起こす、巻き起こしてしまう、あるいは巻き込まれてしまう出来事、もちろんその人の生まれてから死ぬまでが詳細に書かれている訳ではありませんが、実際に書いてあるのがたった1つのエピソードであっても、もうその人の人生そのものと言ってしまってよいくらいの実感を読者に与えてくれます。



しかし、『ひっ』はなんと言うべきか、読んだときの感触がこれまでの戌井さんの小説と決定的に違うのです。確かに話は面白いのですが、真面目に書きすぎているといか、とにかく堅いんです。「どうしてこうなっちゃったんだろう? 」という疑問について考えみようと思ったのが2つ目の理由。



3つ目の理由は、『ひっ』の帯に書かれている



「テキトーに生きろ」




というメッセージが気に入ったからです。書店員の時は「とにかく残業はしないように」と口を酸っぱくして言われましたが、工場員になると今度は残業が当たり前になりました。工場はつくってなんぼですから、工場全体がどうしてもハードワークになっちゃうんですね。そこで働く僕にとって、働くこととどう折り合いをつけるかは目下、最大の悩みです。働きすぎても自分を壊すだろうし、サボったらクビになるだろうし、さて、どうしようか?



そんなとき、『ひっ』を手に取って目に飛び込んできた言葉が、「テキトーに生きろ」でした。「おいおい、滅茶苦茶言うなよ!」と思いつつ、でも、結構いいかもって(笑)。





○『ひっ』について




さてさて前フリはこの程度にして、そろそろ『ひっ』についての話を始めましょう。『ひっ』は俗にいうダメ人間である主人公(おれ)が、どうやって生きようかとダメなりに必死に考えるというお話です。考えるといっても本を読んだり、立ちどまって考えあぐねるという感じではありません。なんとなく生きながら、過ぎてゆく時間のなかで、起こること、出会う人について思いを巡らせながら、体験的に自分の人生を考えていきます。そして、はっきりと目で確認することはできませんが、おれの生き方が少しずつ変わってゆきます。



『ひっ』は、その名の通り、「ひっさん」(名前はヒサシ)という伯父が魅力ある人物として書かれています。ただその魅力というのが一癖も二癖もあって、ま、はっきり言って、魅力的どころか、とても誉められたものではありません。



ひっさんがどのような人生を送ってきたかというと、職人気質の父親とソリが合わず家を出て、ヤクザの見習いのようなことをして、屋台で客といざこざを起こしてフィリピンに逃亡。半年ぐらいで日本に戻るつもりが、そのまま居続け、拳銃の密売にもかかわりだす。そうこうするうちに仕事がヤバいので様々なトラブルに巻き込まれ、何度か殺されそうになり、さすがに見切りをつけて日本に戻る。帰国後エロ雑誌の通信講座の広告がきっかけで、薄っぺらな教則本でハーモニカを練習して半年後には楽譜が読めるようになり、カルチャーセンターのギター教室に通い一年後にはギターの腕も驚くほど上達して、作曲もできるようになる。その後、高級クラブでボーイの仕事をして、店で演奏するバンドが交通事故に遭った際に、急遽交替で演奏し、それが気に入られ、女性歌手の伴奏を毎週やるようになる。作曲のチャンスもものにして、ヒットを連発する。がある事件をきっかけに作曲家をやめて、半島でひとり隠棲して今に至る。そんなひっさんが主人公のおれに一貫して言い続けたのが、「テキトーに生きろ」であったと。



ついでにというか、主人公(おれ)の人生も確認しておきましょう。山登りばかりしていたので大学は一年留年し、卒業後はやりたいことも目的もなかったので、先輩に紹介してもらった油脂を扱う会社に入る。営業部に配属され、外回りでレストランなどの飛び込み営業をしていたが、営業成績は最悪、サボって映画観たり、サウナ行ったり、ピンサロ行ったり、あげく仕事中に酒も飲むようになる。ある日、車に跳ねられ入院する。会社には営業先の店で酒を飲んでいたのがバレてクビになる。退院して、実家に戻り、ぷらぷらして今に至る。ま、典型的なダメ人間ですな。




○『ひっ』の核心




はい、『ひっ』の主要人物であるひっさんと主人公(おれ)をチェックしましたが、いかがでしょうか。ひっさんが良くて、おれがダメという以前の問題というか、はっきり言って、ふたりともダメダメ!



このあたりのことをグダグダ言っていても始まらないし終わらないので、いきなり核心に行きます。『ひっ』の割と早い段階で、おれとひっさんが言い合うシーンが出てきます。ちょっと長くなりますが引用します。



「だいたい、なにやってんだよ毎日、おめえは」


「ぷらぷらしてんだけど」


「ぷらぷらしてるのは構わねえけど、なんにもしねえで家に居るってのは、どうにも良くねえんじゃねぇのか」


「なんにもしてない、わけじゃないけど」


「じゃあ、なにしてるんだよ」


「なにしてるっつうか」


おれは口ごもってしまった。近所に弁当を買いに行ったり、酒を飲みに行ったりしているだけだった。


「ぷらぷらしているったって、近所の野良猫以下だろ。どうせぷらぷらするなら、もっと範囲をデカくしろよ」


ひっさんは一升瓶を片手で持ち、自分の茶碗に注いだ。


「ミミズだって移動するってぇのによ。お前は糞がつまったみてえに同じ場所に居続けて、ミミズにも及ばねえよ」


「悪かったね」


「悪かったねとひらきなおってる前によ、ほら、なんか楽しいことを探せよ」


「探してるつもりなんだけどさ」


「だいたいな、つもり、なんて言ってるから駄目なんだよ。つもりつもりの前に、一歩踏み出せってんだよ」


 ひっさんはあきれた調子で、「どうするんだい本当によ」と言った。


「まあ、なんとなく生きてくつもりだけど」


「なんとなく?」


「テキトーに」


「テキトーでもなんでもねえよ、おめえは」


「ひっさんいつも言ってたろ、テキトーって」


「おれの言ってたのは、そういうテキトーじゃねえよ。生きるためのテキトーさだよ。お前のは、テキトーが死んでる



ひっさんとおれ、ふたりともダメなんじゃないかって思いますけど、このシーンではふたりの生き方(人生観)の違いを読み取ることができます。



あ、ふたりの違いを言う前にまず指摘しておかねばならないのは、ふたりとも出世街道や安定した生活という道はそもそも問題にしていない、論外だってことです。彼らにその資格がないと言えばそれまでですが、いわゆるエリートというか、そういう類いの人が『ひっ』には全くでてきませんし、主人公(おれ)もそういう人を羨ましいとこれっぽっちも思いません。このあたりはあっぱれ! と素直に感心します。



それを確認した上で彼らが言い合っているのはなにかと言えば、「なんとなく生きる」と「テキトーに生きる」の違いです。主人公(おれ)は「テキトーに生きる」ことができず「なんとなく生きている」のに対して、ひっさんは「テキトーに生きている」。ここが『ひっ』の最大のポイントであることは間違いありません。それは理解できるのですが、それでも、「なんとなく生きようが、テキトーに生きようが、どっちもどっちじゃないか?」とやはり思ってしまいます。





なんとなく なんとなく




この原稿を書いているときに、頭に流れていたのが、ザ・スパイダースの『なんとなく なんとなく』でした。





はじめ、はっぴいえんどの曲だとばっかり思い込んでいて、youtubeで探しても見つからなかったのでおかしいなーって思っていたのでした。





ま、ぜんぜん違うかー....






○『ひっ』の見どころ




ちょっと結論を急ぎすぎました。このままでは煮詰まってしまうので違うポイントも見てみましょう。『ひっ』には、おれとひっさんの関係以外にも、たくさんの見どころがあります。先ほども言いましたが、戌井さんは人をじっくり観察して、その人の魅力に取り憑かれたように小説を書きます。『ひっ』のなかには、ひっさんのほかにも重要な人物が出てきます。



○ 気球さん


まずなんと言っても気球さんです。彼は気球に乗ってハワイまで行こうとしたら海に落ちて、気づいたらこの半島に流れ着いていたらしい。家族もあったけど、自分が何処に住んでいたのか記憶がなくなり、帰ることすらできずにいるらしい。以来、本気かどうか疑わしけど漂流物や壊れた部品で気球を作っているらしく、素っ裸のまま半島の洞窟にひとりで暮らしています。気球さんはひっさんに認められていて、おれも気球さんに興味を持っているのですが、世間一般から見れば、頭がおかしい、もう終ってる人となるでしょう。彼の生き方は世間一般の尺度から完全にズレています。しかしながら、ちゃんと生きています。気球さんは気球さんとして成立しているのです。気球さんは謎めいたことや、判断根拠がよく分からないのだけど、物事の本質をついたようなことをさらっと言ったりします。あくまでも主人公(おれ)が見た気球さんなので、気球さん自身ではないので、おれが気球さんをミステリアスな人物に仕立てて、美化し過ぎているきらいもありますが、気球さんが『ひっ』におけるキーパーソンであるのは間違いありません。気球さんは、ひっさんと同じくらいテキトーに生きているという解釈でよいと思います。



○ 風俗店で出会う二人の女性


その他に印象深い人物として風俗店で出会う二人の女性がいます。まずピンサロであった女性については、図書館で働いていそうな感じで、このような店で働いているのがまったくそぐわない雰囲気だったと書かれています。そして、やるべきことはやろうとしてくれるのだけど、おれはまったく用を足せなかったと。このミスマッチを逆説的に肯定することはできそうですが、彼女に対しては否定的なニュアンスで書かれています。「なんとなく生きている」と「テキトーに生きている」の比較で言えば、彼女は「なんとなく生きている」方だと思います。少なくとも「テキトーに生きている」とは言えません。



対して、おれの知り合いがファッションヘルスで働いていて、指名するという後半に出てくる話。このシーンで登場する女性については肯定的に書かれています。作中で唯一おれが恋心を抱くシーンであり、彼女が相手だとおれはすぐに用を足してしまいます。ただ単におれのタイプの女性だったというだけの話かもしれませんが、彼女の自然な身振りや応答がおれにそうさせたのでしょう。ふたりの出会いのシーンが興味深いので引用します。



「ちょっとやだぁ、ビックリした!」


「ビックリするよね」


「そうだよ、ちょっと、やだぁ、なんでぇ?」


「いや本当に偶然で偶然なんだけどさ」


「昨日、あたしここで働いてるって話したっけ?」


「横浜でサービス業ってのは聞いてたけど」


「そうだよね、地元の人には、こういうところで働いてるって話してないもん」


「うん。だから偶然なんだよね」


「そうか偶然か。偶然凄いね」


「偶然凄いです。指名は偶然じゃないけど」

彼女について、また彼女に抱いた恋心については、「なんとなく生きる」と「テキトーに生きる」の比較で言えば、「テキトーに生きる」になると思います。その際に、ふたりの出会いが偶然かなのか? 必然なのか? このあたりが微妙なバランスで絡んできます。



○ミミズ


他にも取り上げたい魅力的な人物がいるのですが、人物についてはこのあたりに留めて、あとは小説の冒頭からでてくる「ミミズ」にまつわるエピソードを紹介したいと思います。一箇所だけ引用します。



切れた状態でもミミズは、両方とも激しくのたうちまわっている。いったいどちらに意思があるのだろうか、どちらが頭で尻なのかわからない。主体性はどっちにあるのか。しばらく眺めていたらもともと二匹だったように思えてきて、勝手ながら二つになってもせめて片方だけでも生き延びて欲しいと両方のミミズを丁寧にシャベルですくい上げ、土と一緒に「エイヤッ」と宙に飛ばした。

ミミズについては、ひっさんが「ミミズは瞬間移動する」など変なことをよく語っていたことから、ひっさんとの関連が強く、「テキトーに生きる」ことの隠喩になっていると思われます。ミミズについてのこの描写で気になるのは「意思」と「主体性」という言葉です。これがやはりキーワードとして「テキトーに生きる」ことにも関わってくるのでしょう。




○自由と自堕落



このように見どころがたくさんあって、いろんな読み方もできますが、やはり今回は、「なんとなく生きる」と「テキトーに生きる」との違いについて、またこれらに加えて、僕が冒頭で書いた『ひっ』を読んだ第一印象「真面目に書きすぎている」についても考えを深めたいと思います。この問題を考える上でヒントとなるフレーズが、なんと『ひっ』の帯に書かれています。引用します。



自由と自堕落、人の生き死にをとことん描く、天衣無縫の傑作長篇






戌井さん本人が書いたのではないと思いますが、核心的な言葉です。この「自由」と「自堕落」というのが、「なんとなく生きる」と「テキトーに生きる」の違いの言い換えとなっています。「なんとなく生きる」=「自堕落」、「テキトーに生きる」=「自由」です。これらに加えて「真面目に生きる」については、「真面目に生きる」=「不自由」と言い換えられると思います。整理します。



なんとなく生きる・・・自堕落


テキトーに生きる・・・自由


真面目に生きる ・・・不自由

こう言い換えるとかなり真っ当な問いになったような気がします。いわゆる自由論です。哲学的なテーマでもありますね。自由をテーマにした書物と言えば、J.S.ミルの『自由論』をはじめ、参考になるものが無数にありますが、ここで私が紹介したいのは、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』という本です。




國分功一郎『暇と退屈の倫理学







「えっ、暇と退屈?」という感じで唐突に思うかもしれませんが、これらは自由と強く関わったテーマであり、國分さんの著書は自由について考える上でも示唆に富んでいます。そのなかでもとりわけ興味深いのが、第五章「暇と退屈の哲学」の議論です。




ハイデッガーの退屈論




ここで國分さんは、ハイデッガーの退屈論『形而上学の根本諸概念』を取り上げます。ハイデッガーはまず退屈を二つに分けて考えます。


(1) 何かによって退屈させられること


(2) 何かに際して退屈すること

(1)は受動形であり、はっきりと退屈なものがあって、それが人を退屈という気分のなかに引きずり込んでいる。ハイデッガーはこの事例として、片田舎の小さなローカル線の、ある無趣味な駅舎で腰掛けて4時間後に来る次の列車を待っている時のことを綴っています。



対して(2)は何か特定の退屈なものによって退屈させられるのではなく、何かに立ち会っているとき、よく分からないのだけど、そこで自分が退屈してしまう。事例として、あるパーティーに招待されて参加した時のことが綴られています。料理は美味しいし、趣味もなかなかいい。食卓を囲んで会話もしたし、食事後、楽しく一緒に腰掛け、音楽を聴き、談笑し、面白く愉快であった。このパーティで退屈なものは何もない。にもかかわらず、家に帰って、私は本当は退屈していたと気づいたのだと。つまり私は何かに退屈していたのではなく、パーティに際して退屈していたのだと。



ハイデッガーは、このように「何かによって退屈させられること」と「何かに際して退屈すること」の二つの退屈を挙げ、それぞれを退屈の第一形式、第二形式とします。そして、その後三つ目の退屈、退屈の第三形式について語ります。



(3) なんとなく退屈

これはどういうことかと言えば、日曜日の午後、大都会の大通りを歩いている。するとふと感じる、「なんとなく退屈だ」と。ハイデッガーはこれを(1)や(2)よりも「深い」退屈として重要視します。(1)や(2)は何らかの具体的な状況と関連しています。しかし、最も深い(3)の退屈は状況に関わらず、突発的に現れます。だれがとか、どこでとか、どんなときにといったことに関わりません。ハイデッガーはこのようにより深い方へ(より純粋な方へと言い換えてもよいでしょう)思考を進めてゆきます。



そして第三形式において、ハイデッガーは一つの反転の論理を展開します。「なんとなく退屈だ」と感じる私たちは、あらゆる可能性を拒絶されている。すべてがどうでもよくなっているのだから。だが、むしろあらゆる可能性を拒絶されているが故に、自らが有する可能性に目を向けるよう仕向けられている、とハイデッガーは言うわけです。



ハイデッガーの思考に即して自由について考えれば次のように整理できるでしょう。



退屈の第一形式・・・不自由


退屈の第二形式・・・不自由


退屈の第三形式・・・自由の可能性がある



國分功一郎の退屈論




対して、國分さんの思考はどうか。國分さんはまず第三形式において、人間が決断を強制されることを確認した上で、ハイデッガーの思考の問題点を次のように端的に指摘します。引用します。



決断した者は決断によって「なんとなく退屈だ」の声から逃げることができた。だから彼はいま快適である、やることは決まっていて、ただひたすらそれを実行すればいい。


さて、ここで第一形式のことを思い出そう。第一形式において人間は日常の仕事の奴隷になっていた。なぜわざわざ奴隷になっていたのかと言えば、その方が快適だからだ。「なんとなく退屈だ」という声を聴かなくてすむからだ。


そうすると思いがけない関係がここに現れる。そう、第三形式の退屈を経て決断した人間と、第一形式の退屈のなかにある人間はそっくりなのだ。彼らは何かに絶対的に従うことで、「なんとなく退屈だ」の声から逃れることができているのだから。

國分さんが着目したのが第三形式において決断を下した後の人間についてです。ハイデッガーに即して考えれば、決断を下した人間は何にも束縛されない自由を獲得した人間となります。ニュアンスとしては、他の人間とは違う、人間中の人間という感じで、覚醒したというか、何かを悟った仙人のようなものと言えるでしょう。



このハイデッガーの考え方を國分さんは批判します。我々は例え決断を下したとしても以前と変わらない日常を生きるのだと。決断を下したからと言って、「なんとなく退屈だ」の声から逃れることはできない、日常の煩わしい問題を免除される訳でもない。にもかかわらず、ハイデッガーはこのように決断を下すことを何か一大事のように位置づけて、人間に決断を下すことを強要するのです。対して、國分さんはハイデッガーと異なり、第二形式の特殊性を主張します。引用します。



ハイデッガーが述べていた通り、あの第二形式には「現存在〔人間〕のより大きな均整と安定」がある。それは「正気であることの一種」であった。


付和雷同、周囲に話を合わせること  ハイデッガーは極めて否定的に第二形式の退屈のなかにある人間の有り様を描いていた。だが、第三形式=第一形式に比べるならば、人間の生はそこでは穏やかである。何しろ第三形式=第一形式において人間は奴隷なのだから。


第二形式において何かが心の底から楽しい訳ではない。たしかにぼんやりと退屈してはいる。だが、楽しいこともある。そこにもハイデッガーの言う「自己喪失」はあるかもしれない。だが大切なのは、第二形式では自分に向き合う余裕があるということだ。


ならばこうは言えないか? この第二形式こそは、退屈と切り離せない生を生きる人間の姿そのものである、と。

このように國分さんはハイデッガーが第三形式に自由の可能性を見出したのに対して、第二形式に自由の可能性を見い出します。國分功一郎の思考に即して自由について考えれば次のように整理できるでしょう。



退屈の第一形式・・・不自由


退屈の第二形式・・・自由の可能性がある


退屈の第三形式・・・不自由


○ 退屈論と『ひっ』




さて、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』における議論を簡単に紹介しましたが、これだけでも大きなヒントを得ましたね。それでは『ひっ』に話を戻しましょう。



『ひっ』における「なんとなく生きる」と「テキトーに生きる」と「真面目に生きる」は、ハイデッガーの退屈論において、それぞれどう対応するでしょうか。まず「生きる」上で「退屈」は避けられない密接な問題ですから、その違いについては敏感になることなく、そのまま置き換えてしまってよいでしょう。



退屈の第一形式 ⇔ 真面目に生きる


退屈の第二形式 ⇔ テキトーに生きる


退屈の第三形式 ⇔ なんとなく生きる

次に、それぞれの意味付けですが、退屈の第三形式「なんとなく退屈(生きる)」を重要視したハイデッガーに対して、國分さんは退屈の第二形式を重要視しました。戌井さんはどうかと言えば、國分さんのように明確に論じていませんが、「なんとなく生きる」ではダメで、「テキトーに生きる」を重要視しています。なので戌井さんと國分さんを繋いで各形式の性質を整理すると次のようになります。



退屈の第一形式 ⇔ 真面目に生きる(不自由、奴隷)


退屈の第二形式 ⇔ テキトーに生きる(自由の可能性がある)


退屈の第三形式 ⇔ なんとなく生きる(自堕落、奴隷)


ハイデッガーの退屈論の問題点




このように整理してみるとハイデッガーが退屈の第三形式に可能性を見出したことはかなり危険なことだと分かります。『ひっ』において自堕落と捉えられた「なんとなく生きる(退屈)」に可能性を見出すということは、九割九分終っているというか、一縷の望み、火事場のクソ力に賭けるということなので、積極的に求めるものではありません。どうしようもない状況で自らがやるというならまだしも、他人に強要するような方向で利用されると危険極まりない。



また第三形式において決断を下すこと、覚醒すること、何かを悟ることについて、國分さんが肯定しなかったのと同様に、戌井さんも積極的に肯定しようとはしません。



例えば戌井さんは『ひっ』のなかでいくつかのエピソードを語ります。実体験に基づいているのか否かは分かりませんが読んでいて実感が沸く、非常に優れたものです。そのなかに、登山の話とインド・ネパールを旅した話が出てきます。ま、有りがちというか、いかにも「あの時の経験があるから今の自分がいるのだ」とか、「あれで人生が変わった」とか言いそうなエピソードなのですが、それを戌井さんは実感を込めて綴りつつ、「何にも変わらなかった」とさらっと書いて無化してしまうのです。




○結果の良し悪しが問題なのではない




あと一点指摘しておきます。「なんとなく生きて」うまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もあります。また「テキトーに生きて」うまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もあります。しかし、作中のおれはそのような点を考えるまでもなく、「なんとなく生きて」いて明らかにうまくいっていません。だから「なんとなく生きる」=「自堕落」とすぐに結びつきますが、これが安易だとかそういう批判は不要だと思います。なぜなら「なんとなく生きる」と「テキトーに生きる」の違いとは、結果がうまくいくか否かを判断の基準にしているのではなく、もっと別の理由によるからです。それは何か? 國分さんが『暇と退屈の倫理学』の最後でこのように述べています。



何かおかしいと感じさせるもの、こういうことがあってはいけないと感じさせるもの、そうしたものに人は時折出会う。(中略)何かおかしいと感じさせるものを受け取り、それについて思考し続けることができるかもしれない。そして、そのおかしなことを変えていこうと思うことができるかもしれない。

今回取り上げなかったキーワードを外して引用したので、なんだか抽象的な書き方になってしまいましたが具体的に考えると分かりやすい。例えば、原発問題がそうでしょう。昨年の事故で避難を余儀なくされたり、損害を被った人でなければ、この問題はすぐに忘れ去ってしまうことでしょう。利害関係、損得勘定で考える人が大半でしょうが、それで良いのでしょうか? この問題は「自由とは何か」という問いと深く関わっていると思います。今回はこれ以上突っ込んで書きませんが。




○『ひっ』を読んだ第一印象を再考




最後にもう1点補足します。冒頭で『ひっ』を読んだときの意外な第一印象として、「あれ? これ、うまく書けてない。僕からみたらテキトー極まりない戌井さんが全然テキトーに書けてない!」と書いて、これを「真面目に書きすぎている」→「真面目に生きる」→「不自由」というように論を展開しましたが、これは間違えだったかもしれません。



確かに、今でも「真面目に生きる」ことを僕は肯定しません。不自由だと思っています。何かに縛られているというか、例え「根っからの真面目」ということであったとしても肯定はしません。しかし、『ひっ』がいつもの戌井さんと違って真面目に感じられたことについては考え直そうと思います。



『ひっ』において主人公(おれ)は「なんとなく生きている」のであって、ひっさんのように「テキトーに生きる」ことはできていません。また作中に出てくるひっさんは、ひっさん自身ではなく、あくまでもおれが見たひっさんに過ぎません。また「テキトーに生きるとは何か?」は最後まで分かりません。しかし分からなくとも、ひっさんや気球さんを見つめながら、おれは「テキトーに生きよう」とします。なんせ「テキトー」ですから、ここで必死という言葉が相応しいかどうかは分かりませんが(おそらく不適切なのですが)、ニュアンス的には、おれは必死に「テキトーに生きよう」としています。だから「真面目=不自由」、何かに縛られているというのではなく、力がコントロールしきれず過剰になってしまって、結果として真面目に感じられたのではないかと推測します。



そもそも「テキトーに生きる」というのは目的化すべきものではなく、あくまでも日常と向き合って生きることであり、習慣的に身につけてゆくのです。また「テキトーに生きている」人が悟りを開くように語るというのもおかしい。だから、『ひっ』のように「テキトーに生きよう」とするおれを見ながら、読者も少しずつ「テキトーに生きる」ようになってゆくというのが道理にかなっていると言えるでしょう。『ひっ』を読めば、少なくとも結果がどうだこうだと気にすることはもうありません。



まだまだ話したりませんが、今回はこの辺でお開きとしましょう。自分で言うのも何ですが、充実した話ができたと思います。小説って本当にいいもんですね。ご清読ありがとうございました。





求ム! 《トークイベント》戌井昭人表現者)× 國分功一郎(哲学者)開催







【参考文献】
戌井昭人『ひっ』(新潮社)
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)→(太田出版






《追記》 幸せな結末




この原稿を書きながら『なんとなく なんとなく』ではなく、『幸せな結末』もいい曲だなと思うようになったのでした。はっぴいえんど つながりで...















 日記Z2018年11月












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