2010年1月(その2)




(1月31日)1月終わり

 



それで黒川直樹作品の一番の魅力はやはり《文体》ということになるのでしょうが、昨日も会場というかバーで知人と話していた訳ですよ。「いったいどうやってこのような文体が生まれるのか?」と。キーワードは《即興》で、黒川さんは即興で書いている訳ではないと思うのですが、いわゆる分かりやすい文章では明らかにないんですね。それで書くというのもそうだし、読むという行為はそもそも苦痛を伴うものだと。いや苦痛以外の何ものでもないと。もちろん村上春樹作品を読み漁っている人が『1Q84』読んだらあれは一種の快感を伴って中毒的に読んでしまうのでしょうけど、そういうのを除いたらやっぱり読むってしんどい。特に《即興》的な書き方、なんだかよく分からないことを掴みようのない感じで永遠と書かれるとやっぱり読む方はキツイですよ。明らかに苦痛を伴いますよ。で、その大半が読まれない訳ですが、それは当然なのですが、そんな中でも読んでしまうものもあるのです。読まれないのがダメで読まれるのがいいのかどうかは分かりませんがね。それで黒川直樹作品はなんか読んでしまいます。僕の場合はその読み方もかなりデタラメで意味とれなくてもいいやってバーーーーーっと字面だけ追ったり、飛ばして読んだりもしてますけど、この読み方はやはり良くないなとも思ってますけど。それでなぜ読むかを考えると単純に「フェティッシュ」かもしれない。「何だこれ?」というただそれだけの興味で苦痛だろうが意味が取れなかろうが読んでいるのかもしれない。「フェティッシュ」をここでは否定的に使っているけど、もっと肯定的に言ってしまってもいいかもしれないし、「フェティッシュ」以外のなんかがやっぱりあるから読んでいるのかもしれない。それで「これはもしかしたらあるかもしれない」と僕自身も以前から思っていたのですが、黒川直樹作品は《文字を読む》よりも《音として聴く》感じに近いんじゃないかと。すると黒川さん自身がそういった感覚をやはりもっていたのでしょう。すでに「朗読イベント」を企画していたようで、まだまだ実験段階ですが昨日初公開されたという訳でした。もうちょっと続けたいですけど、眠いので今日は寝ます。ではでは。

(1月30日)

■ 朝 読書






■ 昼 マスキングと絵画展KABEGIWA(ムサビ)


・荻野僚介作品をほぼ10年ぶりに鑑賞。「単純にしてかつ難解である」とか、これまた10年ぶりぐらいに言ってしまう。


・冨井大裕さんとしばし歓談。末永史尚さんと初めてお会いする。古谷利裕さんの大学の後輩で、写真家の福居伸宏さんとも知り合いだとか。つながっている。






■ 夜 OTTO詩



 



初の長編小説『ALTAのミラーと、夜のマネキンを361体ください。エクステンションはMPEGで』をリリースした黒川直樹さんの朗読イベント。


まだ読んだことがない人がほとんどかと思いますが、ぜひ一度手に取ってみてください。そして買ってください。ジュンク堂書店新宿店(7F)でも販売しています。


僕も黒川さんの文章を初めて読んだときはゾクッとしました。何だこれ? 批評してみたいと思わせる文章なのですが、適切な言葉が見当たらない。何だこれ??? これじゃ、伝わらないので、とりあえず、あくまでもとりあえずですが、「川上未映子さんの小説を初めて読んだとき以上にショックを受けました」と、とりあえず言っておきます。


※ もう少しこの話続けたいのですが、明日はフェア棚の入替えでさすがに早出しないと仕事が終わらないので、今日はもう寝ます。つづきはまた明日。ではでは。

(1月29日)観劇デー


 二騎の会『F』@こまばアゴラ劇場





 



(※ 以下、色々書きますが、あまり難しく考えずにまずは観劇してみてください。)



『F』は、端田新菜の名優っぷり、俳優多田淳之介の勇姿(多田さんはふだん演出をやっているので表舞台には出てきません)、逆に演出家木崎友紀子の腕力(木崎さんはふだんは青年団の作品に出演している俳優です)と見どころたくさんですが、僕がなぜ観に行ったのかを一言で言えば、宮森さつき戯曲を観たかった、んっ?、戯曲は聴くって言うのかな?、むむ? 宮森さつき戯曲を観て聴きたかったからです。


宮森作品は、昨年の『一月三日、木村家の人々』に続き2回目の観劇。前回の『木村家』は認知症の父親の介護に疲れ果てた娘が父親と心中を図ろうとして、、、というありがちな話なのだけど、この手の話はいかようにでもオチをつけられてしまうというか、妥協できてしまうのだけど、観劇中ここで着地するのかな? NO! ここか? NO! ここか? NO! NO! そろそろだろ? NO! NO! NO! という感じで、戯曲が粘り強く書き抜かれていて、僕は戯曲も小説も書かないけど文章を書いているから分かるのだけど、宮森さんがとことん考え抜く誠実な書き手だと分かったので、すっかりファンになってしまったのです。


そして、今回の『F』を観劇して宮森さんへの信頼度がアップしたというか、よく練られた戯曲だと感心しました。『木村家』よりも抽象度が高く、全く関係ない作品かと一見思いましたが、問題意識はちゃんと通底していました。


『F』はタイトルの「F」というのがやはりキーワードになっているのだけど、「F」とは何かは決して明かされないし、明らかにならない。多田さんは一応「Fiction」と理解していると言ってましたけど、他にも解釈が色々あって「Fusion」かもしれないし、「Form」かも「Function」かもしれない。ぶっちゃけ、この「F」は、茂木健一郎さんがよく言っている、というか茂木さんが発明した訳じゃないけど、「クオリア」みたいなもので、「F=なんだかよく分からないもの」なのだと思う。そして「なんだかよく分からない者=FUJIWARA」ということで、なるほど!藤原ちからさんが召集されたのも納得(笑)。


それで今日のアフタートークで多田さんから演劇教育(プロの俳優を養成するための教育)の話が出て、スタニスラフスキー・システムぐらいはみんな知っておくべきなのか? フランスだったら知っていて当然、日本ではそうでもない、韓国では、、、という感じの話があったのですが、当の俳優端田さんはというと「???」という感じでうけました(笑)。


端田さんはやっぱりうまいし、青年団の俳優っていうのはもっと理詰めでやってるのかと思いきや、、、ホント天才的な勘というか本能でやっているんですよ(教育できないじゃん!!! 笑)。


今回の『F』は、人間(端田)とロボット(多田)との間の齟齬が丹念に描かれていて例えば「桜がきれい」というただそれだけのことが共有できないんですね。苦し紛れに「わーい!わーい!」とか言い合ったりして(笑)。でも、これは「人間とロボット」だから発生する問題ではなくて、そもそも人間自身が抱えている本質的な問題ですし、これを俳優が演じるという意味では「現代口語演劇・平田オリザメソッド」もカバーしきれない盲点を突いている(そんなこと考えたら演技なんて成立しないじゃん!)という訳です(自虐的青年団青年団脱構築?)。


そんな訳で改めて宮森さつきさんの戯曲に興味を持ちました。批評してみたいと思いました。僕の場合、漱石の「F+f」(この場合はF(f)=Focus)から、宮森作品にアプローチしようと企んでいます。


 文 学(詩・小説・戯曲) = F+ f



凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。Fは焦点的印象又は観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味す。されば上述の公式は印象又は観念の二方面即ち認識的要素(F)と情緒的要素(f)との結合を示したるものと云ひ得べし。吾人が日常経験する印象及び観念はこれを大別して三種となすべし。


(一)Fありてfなき場合即ち知的要素を存し情的要素を欠くもの、例へば吾人が有する三角形の観念の如く、それに伴なふ情緒さらにあることなきもの。


(二)Fに伴なうてfを生ずる場合、例へば花、星等の観念に於けるが如きもの。


(三)fのみ存在して、それに相応すべきFを認め得ざる場合、所謂 " fear of everything and fear of nothing " の如きもの。即ち何等の理由なくして感ずる恐怖など、みなこれに属すべきものなり。(以下省略)


以上三種のうち、文学的内容たり得べきは(二)にして、即ち(F+f)の形式を具ふるものとす。


夏目漱石『文学論』)




文学論〈上〉 (岩波文庫)

文学論〈上〉 (岩波文庫)


文学論〈下〉 (岩波文庫)

文学論〈下〉 (岩波文庫)

 二騎の会『F』@こまばアゴラ劇場