2021年2月日記Z

2月28号(일요일) today:3h // 今月 中国語:18.5h / 韓国語:29h

汉语

・作文 3時間 「中国語ステップ100」フレーズ書き取り



2月27号(토요일) today:0h // 今月 中国語:15.5h / 韓国語:29h

語学の勉強ばかりやっていると、考える力が弱くなるので、やっぱり本も読まないといけないと思い、本を読む時間もつくることにした。2月22日の日記に書いている『日韓併合期ベストエッセイ集』の安岡章太郎の文章が気になって、その後も考えていたのだけど、この文章を受けて、いくつか調べないといけない問題が出ていた。

(1) 日本は朝鮮でどのような統治を行っていたのか。
(2) 台湾における統治では、台湾の人びとから後藤新平新渡戸稲造を評価する声も聞かれるが、朝鮮においてはそのような人物はいないのか。
(3) イギリスやアメリカは植民地統治の方法論を良くも悪くも持っているが、日本は持っていなかったのか。
(4) "他者”についての理解はあるのか。

(1)〜(3)については追い追い調べることとして、しかし論点を先取りすれば、このなかでもっとも重要なのは(4)である。

例えば、東大で、法学部と経済学部と文学部とあと教養学部っていうのがあるのか? そのあたりよく知らないけど、それらの学生に「他者について原稿用紙10枚で論ぜよ」という問題を出したらどうだろうか?

おそらく文学部の学生が一番まともな回答を書いてくるんじゃないかと思う。というのは人文学では他者概念などを扱った高いレベルのテクストを徹底的に読み込む。正直、大半の学生が難しくて読めずに挫折するけれども、それでもいろんな文献をあさって、色々調べて、勉強会や翻訳会を開いて、難解なテクストになんどもなんども挑戦する。

もちろん、他者問題については、法学的なアプローチ、経済学的なアプローチもあるのだろうけど、テクストを読むということでいえば、人文学部の教育がいちばん徹底しているのではないか?

昨今、人文学部不要論が叫ばれているけれども、本もろくに読まずに大学を卒業した連中が、大学をどうするとか言わないないでほしいんだよなー


さて。

ちなみにビジネスの現場はどうかと言えば、「他人」という概念を自身のビジネスモデルに組み込んでいる企業はたくさんあると思われるが、「他者」という概念を組み込んだビジネスモデルを確立している企業は皆無だと思われる。

というのは、「自分のことだけではなく、他人のことも考えましょう」「Win-Winの関係を築きましょう」というように「他人」という概念を組み込むことは、ビジネス的にも有用なので活用される傾向が強い。

しかし「他者」という概念はそもそも理解できないし、ビジネスモデルに組み込むと、途端に難易度が跳ね上がるので、そういうことを考えているビジネスパーソンは存在しないと思われる。

だからといって建設業は終わってる、製造業も終わってるというように、ビジネスの現場の人々を安易に責めないでほしいですけどね...

「他者」とか、そんなレベルの高いことまで考えなかったとしても、企業の経営を成り立たせるのは大変だし、事業を運営するのも大変だし、利益を出して、雇用を確保するというのは本当に大変なことですから。

だからプロの学者や作家の方々にお願いしたいのは、こういった難解な問題を扱ったテクストに挑み続けたり、あるいはまだ誰も成し遂げていない理論や作品を創り上げること。難しい状況下であっても書き続けるという姿をわれわれに見せて欲しいです。それがたとえ失敗に終わったとしても、その姿はよのなかの人々にちゃんと伝わりますから。


余談がすぎたけど、本題に戻って”他者”という問題に対峙している作家に多和田葉子さんがいらして、僕はこの問題にぶち当たると、いつも彼女の本にもどってくる。

『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』

この本を買ったのは何回目だろう? ずっと単行本で持っていたけど、いまは文庫本になっているんですね。

それで今回は、ソウルと北京のところを読んだ。以前はまだ中国語や韓国語を勉強していなかったので、この箇所はあまり記憶に残っていないのだけど、今読むととても心に響いた。

これまでも「移民文学」「クレオール文学」というような言葉はよく聞いたが、「エクソフォニー」はもっと広い意味で、母語の外に出た状態一般を指す。外国語で書くのは移民だけとは限らないし、彼らの言葉がクレオール語であるとは限らない。世界はもっと複雑になっている。
多和田葉子『エクソフォニー』より)

ソウルを離れるときには、別れの痛みさえ感じた。仕事で外国に行った時にはどんなにすばらしいところでも、別れの悲しみなど感じないわたしにとって、韓国は唯一の例外だった。

パネル・ディスカッションの時、パネリストの一人であった作家朴婉緒(パク・ワンソ)さんに対して、聴衆の中にいた学生が「影響を受けた外国の作家は誰ですか?」という質問を出した。朴婉緒さんは、ドストエフスキーバルザックを筆頭に、何人かヨーロッパの作家の名前を挙げた。すると、その学生は腑に落ちないというような顔をしてもう一度手を挙げて、「日本の文学は全然読まなかったんですか?」と尋ねた。今度は朴さんが驚いた顔をして、あなたは外国の作家で影響を受けたのは誰か、と聞いたのではなかったのか、日本文学が外国文学だという発想はわたしたちの世代にはない、わたしたちの若い頃は日本語を読むことを強制され、韓国語は読ませてもらえなかったのだし、だからドストエフスキーなどヨーロッパの文学も全部、日本語訳で読んだのだ、と答えた。

母語の外へ出る楽しみをいつも語っているわたしだが、日本人のせいでエクソフォニーを強いられた歴史を持つ国に行くと、エクソフォニーという言葉にも急に暗い影がさす。母語の外に出ることを強いた責任がはっきりされないうちは、エクソフォニーの喜びを説くことも不可能であるに違いない。

中国という文化的巨人と日本という侵略国家の間に挟まれて、韓国は徹底的に自分の言語の純粋性を求めるようになったのではないか、という印象を受けた。排除する対象は、日本語だけではない。漢字も排除されていった。「漢字を使わないようにしてハングルだけにしていったら、昔の本や学術書も読めないし不便じゃないの?」というわたしの質問に対して学生が「でも中国文化の大きすぎる影響を排除するためには漢字を使っていてはだめだ」と答えた。なるほど、漢字を使っていれば中国文化の巨大な傘の下から出られない。
多和田葉子「ソウル 押し付けられたエクソフォニー」より)

簡体字に偏見をもつ日本人は、わたしだけではないだろう。心のどこかで、簡体字などは輝かしい中国の文化史に偶然あらわれた悪戯書きのようなものだと感じている人はたくさんいるだろう。ところが北京から戻って、高島俊男の『漢字と日本人』という本を読んでいると、実はわたしが小学校の時から唯一正しい字として習ってきた日本の新漢字も、漢字を廃止しようという政治的な意図のもとに急いで作られた簡略体に過ぎず、旧漢字を体系的に理解している人間から見ればとんでもない矛盾を含んでいるということが分かった。読んでいくうちに、気が鬱々としてきた。単純化され歪曲されたカタカナ英語ばかり目につく日本語から逃れて、美しい漢字の世界に浸ろうと密かに計画していたのに、日本の漢字世界も、実は単純化され歪められた中国語に過ぎなにのか。すると今、自分が書いている日本語というものがフェイクの闇市に見えてくる。ぺらぺらで、しかも、ぼろぼろなのだ。日本の漢字改革に欠点があったというだけなら別に腹も立たない。どんな正字法改革にも欠点は必ずある。しかし漢字の改革が、いつかは漢字などやめてしまおうという気持ちで大慌てで行われたということに腹が立つ。しかも、上から押し付けられたような印象が拭えない。ワープロに入っていないというだけで書きたい字が書けないときの苛立ちともどこか似ている。ワープロは教科書ではなく商品なのだから、どの字を入れるべきかを消費者が決められてもよさそうなのに、そんなチャンスはない。何しろ「うちだひゃっけん」の「けん」の字が出ないのだから、ワープロの漢字の選択を決定している機関で働いているのはいったいどんな人たちなんだろうと首をかしげたくなる。
多和田葉子「北京 移り住む文字たちより」)

多和田さんは、自分の名前が簡体字で「多和田叶子」という字になってしまうことにかなり違和感を感じたようだけど、詩人のウィリアム・バトラー・イェイツに至っては、中国語で「威廉·巴特勒·叶芝」だから、これはもう「おまえ、いったい誰だよ?」という感じで、「千と千尋」レベルの話ではない。



2月26号(금요일) today:4h // 今月 中国語:15.5h / 韓国語:29h

汉语 オンラインレッスン:1.5時間

・听力 単語の聞き取りテスト
・书写 語順整序問題と簡単な作文のテスト(作文の時間を長めに)


・作文 2.5時間 「中国語ステップ100」フレーズをカードに。作文のときの文型の矯正のため。


2月25号(목요일) today:4h // 今月 中国語:11.5h / 韓国語:29h

한국어:4時間

・単語:2時間 レッスンの小テスト勉強
・文法:2時間 「TOPIK1 総合対策」の文法パート。フレーズを単語カードに書く。


韓国語のレッスンは先生の急用で来週に延期。



2月24号(수요일) today:2h // 今月 中国語:11.5h / 韓国語:25h

한국어:2時間

・単語:2時間 レッスンの小テスト勉強


単語を覚えるのは大変である。

호프 바 나이트클럽 디스코 술집



2月23号(화요일) today:4h // 今月 中国語:11.5h / 韓国語:23h

한국어:4時間

・単語:2時間 レッスンの小テスト勉強
・音読:2時間 テキストの文章を2つ(レッスンの宿題)


ジムの帰りに寄った本屋でたまたまこの本を見つけたので、パラパラと読んだ。僕が韓国語を学ぶモチベーションをうまく説明してくれている一節に出会ったので引いておく。

韓国語の世界をより深く、近しく知ることができるといったことは、どの言語にも当てはまる。その言語を学べば、その言語の世界を深く知りうるのだから。しかしここでことさら〈隣近所性〉と言うのは、他の多くの言語とは違って、さらに韓国語には決定的に重要なことがあるからである。

韓国語は実に、日本語圏のすぐ隣に存在する。そうであるがゆえに、学ぶことによって見えてくるものの量と質が、リアリティが全然違う。遠く離れた世界ではない。文化も歴史も、人々も、すぐ隣に存在するのである。この隣近所性がもたらすリアリティの質量は圧倒的である。

それだけではない。学べば学ぶほど、知れば知るほど、実は日本語圏の内部にも韓国語=朝鮮語圏に源を発する様々なものが存在し、それも場合によっては日本語圏の世界を形作るのに不可欠なDNAのように存在していることが見えてくる。『古事記』『日本書記』『万葉集』といった古い時代から、同時代の在日朝鮮人・韓国人の存在まで、日本語圏の人々にとって、韓国語圏の人々は、実は〈自己〉と異なる、単なる〈他者〉などではないことがわかる。

日本語圏には文字というものがなかった。従って、ことばと言えば、〈話されたことば〉しかなかった。〈書かれたことば〉は誰も見たことがなかった。日本列島にもたらされた〈書かれたことば〉は漢字で書かれた漢文であった。

書かれた史書を見る。応神天皇の代に朝鮮半島の国・百済から『古事記』によれば和邇吉師、『日本書記』によれば王仁という賢人を呼ぶ。王仁は書首らの始祖となったという。なお『千字文』と『論語』を伝えたとあるが、この時代にはまだ今日に言う『千字文』はない。

いずれにせよこうした記事は、人とことばと知の流れを私たちに教えてくれる。人と共に知が朝鮮半島から日本列島に渡る。それもことばが、知が、日本の支配の中枢へと朝鮮半島からやって来る。それが日本語の世界の知の源を形作る。そして日本列島はそれらの知と血を受け継ぐ。近接性とか近隣性とか言わず、ここで隣近所性と呼んでいるのは、自分たちの中に共に存在するという形を、ずっと受け継いできているからである。韓国語は日本語と共に生きている。

なお、ここで一気に、そうだ、日本と韓国の祖先は同じだ、などとやみくもに突っ走っては、絶対にいけない。日本の植民地支配の支えの一つとなった「日鮮同祖論」のように、とんでもないイデオロギーに嵌ってしまう。韓国語圏からもたらされたものが、日本語圏に様々な形で存在し、様々に受け継がれていることを、丁寧に見て、多様なことがらをそれぞれ個別にきちんと考えていくことと、乱暴に「祖先」は同じ、だから同じ「国民」などとやるのとは、その本質のところで違う。暴力的な議論はいつも危ないのである。
(野間秀樹『韓国語をいかに学ぶか』より)



2月22号(월요일) today:0h // 今月 中国語:11.5h / 韓国語:19h

今日も『日韓併合期ベストエッセイ集』を読んでいた。そのなかで柳宗悦の文章がよかったというか、韓国(朝鮮)の本質を捉える上で、彼の見方は、すごくフィットしていると感じられた。

柳宗悦は、大学入試の試験問題に好まれそうな対比構造を明確にした文章の書き方をする。僕はもうおとなだから受験生みたいな素直な読み方はしないで、「そんな単純な対比成り立つわけねーだろ」とつっこんだり、作者の意図(作者のイイタイコト)ではなく、作者の魂胆(作者が持論に引きつけようとするシタゴコロ)が働いていないかを探りながら読むのだけど、この文章に限ってはそういう淫な気持ちではなく、まるで受験生のような純な気持ちで読んだ。

朝鮮もの(器物)は大体から言って二つに分かれる。高麗のものと、李朝のものと。前者の美しさは早くも宋の時代に支那でも認めたものである。青磁の秘色は又とない麗しさがある。技術の方を見る人々は、誰もこの時代の青磁を一番だという。それに細かな象嵌の手法や美しい鉄絵等が進んできて、その歴史を賑やかに飾った。高麗のものは繊細である。線の微妙さは譬えようもない。それほどに進んだものだと言える。だが之につれて弱みが加わってくる。遂には果てない情まで誘う。国の弱さや無常の教えがここまで導いたのだと思える。高麗の品は女性的である。

だが之に比べると李朝のものは幅さ(ママ)がある。時代が変わると共に教えも仏教から儒教にうつる。曲線が直線へと転じてくる。際立った対立である。種類の変化は李朝に来るとずっと多い。或人はこの時期で、焼物が下落したかの様にいう。繊細な技巧だけを見る人々にこの見方が多い。だが美しさの方から見ればそう簡単には言えない。この号がそれを証明する。

李朝のものにも三島手と堅手とが分かれている。三島手は高麗のつながりである。青磁の技術が衰えて三島になったのだと説明する人が多い。そう説くと条道が立つ。だが美まで衰えたというなら間違っている。新たに加わった白絵刷毛目の手法は、今までにない味を産んだ。大まかな、ゆったりとした、奔放な味は三島手に来なければならぬ。高麗にはない渋さがある。多くは貧乏な坊さん達の暮しの技だったといわれるが、どこか静寂なこだわりのない禅趣がある。こんな簡単な味は高麗には乏しい。三島手が日本に伝わって、茶器として無上に悦ばれたのも無理はない。味わいの点からいうと私は三島ものを挙げたい。味が渋くて、妙に深味がある。使いこなしたものになると一入である。
柳宗悦「朝鮮陶磁号序」より)

柳宗悦は朝鮮の器物では、高麗のものよりも李朝のものを評価している訳だが、要するに李朝のもののほうが「民藝」なるものに通じていると言えるということでしょう。

民藝ってなにかというと、イメージはすぐにできるのだけど、説明しようとすると長くなる。誤解を恐れずに言えば、これ。


柳宗理 「バタフライスツール」

無駄をはぶいた簡素、作為に傷つかない自然さ、簡単な工程、またはそこに見られる無心の豊かな模様、健実な確かな形、落ち着いた深みのある色、全体を包む単純な美(柳宗悦「民藝とは何か」より)

李朝と高麗の違いを確認しておくと、韓国の歴史はまだ勉強していないから、この文章から推測するけれども、高麗は国が弱かったので宋の影響をかなり受けていたのに対して、李朝は国がけっこうしっかりしていたから独自の文化を育んだのではないか。またこれは決定的だけど、高麗が仏教文化だったのに対して、李朝儒教文化になったということ。

柳宗悦を受けて、韓国(朝鮮)の良さが李朝にあるとするならば、つぎは「儒教とは何か」を調べるのがセオリーだと思われるが、ちょっと角度をかえた視点から考察したいと思う。

というのは、高麗は儒教云々ではなく、そもそも朝鮮的なるもののちからが弱かったとも読めるから。宋の影響を受けていて、そもそも朝鮮的ではなかったとも言える。ならば朝鮮的なるものとは何かを儒教とは違った角度から探ることもできるのではないか。

そこでかなり飛躍があるのだけど、このエッセイ集に、柳宗悦のほかにも興味深い視点が示されている文章があって、そっちに話を展開していきたいのだけど、それは安倍能成の文章で、彼は朝鮮の風景を描いている。

聞く所にして誤がなくば、朝鮮は三分の二位は花崗岩質だという。そのせいであろう、山の土は多くが赤いか白いかであり、河の砂も常に白く、そうしてそこを流れる水も大体に於いて清らかである。空が鏡のように晴れて大地が大体に白い故、朝鮮の景色には総べて汚さ、むさくるしさ、暗さ、物凄さ、気味わるさがない。それは清く、明るく、開けっぱなしである。しかもその清く明るい中に、何となく滋味のないような、たよりのないような寂しさがある。例えば洗い晒しの白地の雑巾といったような所がある。その原因は主として今までの山林の荒廃、人間が自然から取るだけ取って自然を守り育てることをしなかった投げやりから来るように思われる。(安倍能成「朝鮮所見二三」より)

柳宗悦による朝鮮の見方に通じるものが、安倍能成の文章にもある。

ここで、はっとしたのが花崗岩という視点で、例えば、西洋建築と日本建築とを比較するときに「石の建築」と「木の建築」という対比はよくするのだけど、西洋建築の石というのは、一般的に大理石(石灰岩)であって、日本や朝鮮の石とは違う。現代建築だったら、ヨーロッパの建築のように、日本でも赤トラ(赤色のトラバーチン)などを高級な建物で使うこともあるけれど、原則、内装材ならいいが、外装材には使うなと言われている。

それで、安倍能成の朝鮮の風景描写を読んで気づいたのだけど、西洋と東アジア(韓国、日本、あと中国も入れていいか?)を比較するときに「石灰岩」と「花崗岩」という対比は有効ではないか。

そして「花崗岩」といえば、次の一節が必然的に頭に浮かんでくる。

山の一番高いところにあるのも、一番低いところにあるのも花崗岩である。花崗岩の性質はいまでこそ前よりもよく知られ、他の岩石から区別されるようになりはしたが、じつはこの岩石こそが地球の礎石を成すものであり、他のさまざまな山岳はどれもこれもこの上層にできたものにすぎない。花崗岩は地球の内部の一番奥深いところにびくともせずに休らっているし、ときには地上に高く山岳となって聳え立ち、万物を包みこむ海の水もその頂には触れることができない。花崗岩についてわれわれの知っていることは、せいぜい以上のことにすぎない。花崗岩を構成する鉱物はよく知られてはいるものの、その組成過程は謎につつまれ、その起原は火にも水にも求めることはできない。きわめて単純ながらも、花崗岩はその組成によってじつに多種多様に果てしなく変化してゆく。構成物質の配置や比率、花崗岩の年齢、色彩は山岳によって異るし、そもそも山岳を形成している岩塊は、同じ山岳のなかにおいても一歩あゆむたびに違いを見せてくることが多いが、全体としてはつねに同じものなのである。
ゲーテ花崗岩について」より)

この一節はゲーテの根本思想である「メタモルフォーゼ」を端的に示すものとして、しばしば引用される。高橋義人は以下のように解説している。

ありとあらゆる動物や植物は、原動物(原型)や原植物のなかに包摂され、この点で自然は根源的な同一性を示している、

ゲーテは形態を、それを変化させる力との関係において捉えながら、動的にして総合的な生物学の確立をめざしていたと言えよう。

建築で言えば、ほぼ同時代のゼンパーが、同様の思想で理論構築を行なっているが、柳宗悦が「民藝とは何か」で言わんとしている世界観もゲーテに通じている。

なるほど。

韓国の本質を理解する上で、儒教花崗岩は押さえておかねばならない。


やべぇ、もう1時だ。本なんて読んでないで、勉強しないと....




2月21号(일요일) today:3h // 今月 中国語:11.5h / 韓国語:19h

한국어:3時間

・単語:レッスンの小テスト勉強


今週は仕事の疲れがたまっていたのでゴルフの朝練はキャンセルして久しぶりに本を読んだ。

戦前の朝鮮の様子を知ることができる本はないかと知人に尋ねたら、この本を教えてくれたので読んだのであった。例えば、大正時代や戦前の東京の様子を夏目漱石永井荷風の文章をとおして眺めるように、作家の文章をとおして日韓併合期の朝鮮の様子を観てみたいと思ったのだ。幼少期を朝鮮で過ごした五木寛之はこのように綴っている。

もっと辺鄙な村に引っ越すことになりました。というのは、父親が、そこにある普通学校、つまり当時の朝鮮人だけの小学校に、校長先生として赴任することになったからです。 内地にいれば、まだ地方の小学校の一教師にすぎないだろう日本人も、当時、植民地へ行けば、若くても出世して校長になれる、ということがありました。 そのため、日本では報われない人たちが、新天地をもとめて植民地へきていたのです。(中略)遊び相手は、同年配の朝鮮人の子どもたちだったのです。 そういうとき、私が使うのは日本語だけです。一方、彼らのほうは日本語をほとんど使わない。日本語を強制されてはいても、日本人がほとんど誰もいないのですから、当然、彼ら同士はいつも朝鮮語で話しているわけです。 しかし、一緒に遊んでいるうちに、私のほうも朝鮮語を片言で少しはおぼえますし、向こうも日本語を教えられているので、片言の日本語はわかります。コミュニケーションにはさほど問題なかったような気がします。
五木寛之「運命の足音」より)

これくらいの関係ならばよかったと思うのだが、京城(ソウル)にいた安岡章太郎はまったく異なる原風景を描いている。

当時は日韓合併後、まだ二十年とたっていなかったはずだが、日本人は朝鮮のなかに完全に日本人だけの社会をつくり上げていた。南山幼稚園にも、南山小学校にも、朝鮮人の子供はたぶん一人もいなかったはずだ。そんなだから、僕は朝鮮に何年いても、朝鮮語というものは、二、三の単語を知っている程度で、まったく憶えようともしなかった。それどころか、日本は朝鮮人朝鮮語をつかうことを禁じ、朝鮮人ばかりを集めた朝鮮の学校で日本語の教育を強制した。そして後には、朝鮮人の姓を取り上げて日本姓にあらためさせるようにした。

これは、僕ら日本人の差別心の特異な構造をあらわしているかもしれない。たとえばアメリカ人は、アフリカから連れてきた黒人に、ジムだのジョーだのと勝手な名前をつけて奴隷にしたが、家の中へ黒人を入れて、家事も黒人にまかせ、白人の赤ん坊は黒人の乳母の乳房を吸って成長したし、台所や給仕も全部黒人の仕事であった。だから、アメリカ南部の白人の味覚は、上流の家庭であればあるほど黒人化されてしまったといわれるくらいだ。僕らから見ると、こういうアメリカ南部の白人が、黒人と同じテーブルでは絶対に食事もせず、同じ便所もつかわせないほど、きびしく差別していたことは不思議である。しかしアメリカ人から見ると、われわれ日本人の朝鮮人に対する差別は、じつに奇妙で不合理なものに映ったにちがいない。

いや、日本人の朝鮮人差別は、不合理というより、無理な背のびというべきかもしれない。明治以来、わがくには、アジアのなかの”名誉白人”的な地位にのし上がり、朝鮮を植民地にしたうえ、アメリカやイギリスと中国の市場を争うにいたった。しかし、せいぜい手廻しの蓄音機ぐらいが家庭のなかの唯一の文化的器具であった僕らは、ほとんどの家にT型フォードや新型のシヴォレーなどの自動車が行きわたっていたアメリカなどと、まともに争って勝てるわけがない。他民族を征服し差別するのだって、日本人と朝鮮人の差違は、アメリカの白人と黒人の文化的落差とは、較べようもないほど小さなものに過ぎない。だから、差別の問題を道徳的に問いなおすことはさて措いて、僕らは能力からいって、アメリカ人やイギリス人のように、アジアで他民族を支配したり差別したりすることは不可能だったはずである。要するに、日本が”名誉白人”になれたのは、アジアで他の国よりも何年か先に近代化のスタートを切ったというだけのことだ。
安岡章太郎「僕の昭和史」より)



2月20号(토요일) today:5h // 今月 中国語:11.5h / 韓国語:16h

汉语:5時間

・HSK3级,4级 過去問題テスト
・作文練習カードづくり


合格点が180点だからギリギリ乗ってきたけど、まだけっこう厳しいなー。

ま、听力(リスニング)は伸びてきた。

僕が受験生だったころはリスニングはほとんどテストに出なかったし、当時英語の勉強の場合、リスニングなんてアメリカに行かないと伸びるわけないって思ってました。

でも最近の語学教材って全部CDが付いてるんですよ! 単語集もちゃんとCDが付いていて、単語だけではなく例文も読んでくれる。これすごくいい。

あと面白かったのは受験ハウツー系のYouTube見てたら、今は単語を覚えるときに書くなって教えてるんですよね。シャドーイングってCDの音声を追いかけて声に出して覚えろって教えてる。CD聴いて声に出して、音で覚えるっていうのは確かにいいなーって思いました。

とは言え、僕は古い人間だから、音だけでは嫌で、絶対に書きますけどね。特に韓国語は耳と目だけだと覚えきれなくて、スペルミスをよくするので書かないとダメだし、中国語の場合も、日本語と同じ漢字でも発音の音が違って、拼音や声調までチェックするとなるとやっぱり書かないと覚えられないかな。



2月19号(금요일) today:1.5h // 今月 中国語:6.5h / 韓国語:16h

汉语 オンラインレッスン:1.5時間

・听力 単語の聞き取りテスト
・书写 語順整序問題と簡単な作文のテスト


这周累死了。
ラーメンたべたい。
不需要叉烧。



2月18号(목요일) today:2h // 今月 中国語:5h / 韓国語:16h

汉语:2時間

・HSK4級の単語帳 199-300を単語カードに書く。音声聴きながら。


韓国のアメリカンドッグには砂糖がまぶしてある。



2月17号(수요일) today:2h // 今月 中国語:3h / 韓国語:16h

한국어 オンラインレッスン:2時間

・テスト 21/30点
・テキスト:「できる韓国語初級Ⅱ」제16과


アメリカンドッグを二年ぶりに食べた。


2月16号(화요일) today:0h // 今月 中国語:3h / 韓国語:14h

仕事で勉強できず。
サラリーマンの宿命である。



2月15号(월요일) today:3h // 今月 中国語:3h / 韓国語:14h

한국어:3時間

・単語:レッスンの小テスト勉強

固有語はほんまにおぼえられへんわ。



2月14号(일요일) today:6h // 今月 中国語:3h / 韓国語:11h

한국어:6時間

・作文:1時間 10行以上の文章を2つ(レッスンの宿題)
・単語:2.5時間 レッスンの小テスト勉強
・音読:2.5時間 テキストの文章を4つ(レッスンの宿題)


音読でくたくたになった。先週宿題をできなかったので2週間分ためてしまったというのもあるが、ハングルは本当に読めない。なぜ読めないのか?

韓国語を教えているYouTuberが、韓国語を聞き取れない理由を4つあげていて、そのとおりだと思ったのでまず確認しておく。

1. 単語・文法を知らない
2. 単語の意味がすぐに出てこない
3. 正しい発音を知らない
4. 音の変化をしらない

これは聞き取れない理由であり、また読めない理由でもある。

いいポイントついてるなー、韓国語を勉強するポイントそのものだなー。とくに4番は韓国語特有の問題で、ルールを覚えられなくはないけど、なかなか瞬時に対応できない。例えば、フォークボールをストレートのタイミングで振ってしまって、「なんだよ、こいつフォーク投げんのかよ」ってベンチに引き上げるときのような感じかな。野球は少年野球でやめたから、フォークボール投げるピッチャーと対戦したことないけど。

なんの話や? それで、なんで日本人がハングルを読めないかなんだけど、この4つ以前の問題があって、例えば英語の場合は、日本語と明らかに違う言語と認識するから混乱はしないのだけど、韓国語は日本語に似てるんですよ。発音も日本語にある音がけっこうあって、脳みそが日本語の感覚で対応しようとしてしまう。

しかし、ここが落とし穴で、正しい韓国語の文章を声に出して読もうとすると、脳みそが日本語と思って「それ間違ってるよ」ってNGを出してしまう。

例えば、

ハングゲソヌン セヂプロ イサル ハンフエ チンチョクトゥルグァ チングトゥル チョデヘソ パティル ハムニダ。

これを声に出して読もうとすると、「ゲソヌン」なんて音のならびは間違い! NG!「トゥルグァ」なんて音ねーぞ! NG!って感じで、脳みそがNGを出してきて、声に出すのを引き止めにくる。

あとは日本語にあるけど日本語ではあまり使わない音、ヌン、ル、プ、パ、トゥ、グァ、チョ、などが多用されるので、口の筋肉がその音を出すのに慣れてなくて、舌を噛んでしまったり、うぅっとむせてしまったりする。

まだまだハングルを読むスピードは遅いのだけど、なんだか、早口言葉の練習をしているようで、すっごく疲れる。。。


2月13号(토요일) today:6h // 今月 中国語:3h / 韓国語:5h

한국어:4.5時間

・「TOPIK1 総合対策」の文法パート。フレーズを単語カードに書く。単語集の音声を聴きながら。


汉语 オンラインレッスン:1.5時間

・听力 単語の聞き取りテスト
・书写 語順整序問題と簡単な作文のテスト


中国語のレッスンは昨年、初級のテキストを終えたあと自由作文のレッスンをやった(2020.7〜11)。先生に日記を書くことを勧められたけど、そもそもいわゆる日記は日本語でも書けない。会社勤めをしていると色々あるにはあるけど、それは書けないし、基本的に単調な毎日なので、富士日記みたいなことにはならないし、プライベートなことを書いて先生に添削してもらって、「あなたはメンヘラですか?」なんて言われるのも嫌なので、日記は語学の勉強にはあまり向いてない。

それで仕事で中国のスタッフとやり取りした内容を人に話してもいい範囲で中国語の文章にしたり、読んだ本の感想を中国語で書いてみたりしたが、ちょっとレベルを上げすぎたというか2時間のレッスンで添削してもらうだけの文章を毎週書くのが大変だったし、復習してもなかなか定着しなかった。

それでレッスンを一旦やめた。しかし週に1回くらいはネイティブの先生にみてもらいたいとまた思ったので、新しい先生を探して再開した。今度はレベルを上げすぎないように注意してもらっている。今はHSK(中国語版のTOEICみたいなテスト)の4級がとれるかどうかくらいのレベルなので、そのくらいのレベルの問題を作ってもらって、テスト形式でレッスンをやってもらっている。


2月12号(금요일) today:2h

ブログを再開。
とは言っても、今は空き時間に中国語と韓国語の勉強をしていて本を読んでいないので、書くことが何にも頭から出てこない。なので、語学の勉強の記録をつけるだけ。ではスタート!


한국어:0.5時間

・ジムのランニングマシンで走りながら韓国語ドラマ「スタートアップ」を視聴。字幕をハングルで。会話はほとんどわからない。何が起こっているのか、雰囲気はなんとなくわかる。


汉语:1.5時間

・HSK4級の単語帳 103-198を単語カードに書く。音声聴きながら。








 

 

 

 

 2020年7月日記Z

 

 

 

 阪根Jr.タイガース

 

 

 

 阪根タイガース