日記Z 2016年5月




5月31日(火)

帰り道、アナ雪なんぞ歌ってみる♪




5月30日(月)


もう少し残業したかったけど、仕事を打ち切ってジムへ。


夜ラン。


体と心を健康にして、ポジティブに頑張ろう!

5月29日(日)

マジでクッソカッコイイ!!




千秋楽といえば、大相撲!って思ってしまうのだけど、演劇も千秋楽って言う。演劇は映画と違って公演期間中に何回も演じるから俳優をはじめスタッフの皆さんはそりゃもう大変だと思う。



僕はもっぱら観る人だから公演中は基本的に1回しか観ないし、多くても2,3回が限度。それを10回も20回も演じるっていう営みがいったいどのようなものなのか? 想像を絶する。だからこそ、公演関係者にとって最終日、すなわち千秋楽への思いは一入なのだろう。



今日は早起きしたから、朝からツイッターを見ていたのだけど、きょう千秋楽を迎える劇団がたくさんあって、最後の舞台に向かってゆく俳優たちのツイートがマジでクッソカッコ良かった!男優も女優も!!



公演をして手応えを感じつつ、自信を深め、充実感がみなぎっている、そんな姿がツイートを見ているだけでもまざまざと目に浮かんでくる。演劇人としてのプライドを強く感じた。



あっぱれ!!!!!



自分の仕事に誇りを持てるということは素晴らしい。



さて、僕はどうだろうか? 自分の仕事に誇りを持っているだろうか?



答えはあえて聞かない。



明日から頑張れ! じぶん!!!!!



今月は本当に良い作品をたくさん観ました。



演劇人の皆様!



ありがとうございました!!



次の公演も控えていると思いますが、ゆっくり休んでくださいね。



お疲れ様でした!!!


5月28日(土)


気を取り直してがんばろう!って何を?


確かに…


でも、がんばってるうちにがんばるものが見つかるんじゃないかなー


ま、あしたは朝練がんばろー

5月27日(金)

頭の中を空っぽに

5月26日(木)


ひとりMTG.
とにかくがんばろうー!!!!!

5月25日(水)


早起きして早く会社に行って仕事して19時には会社を出た。家に帰ってコロッケ食べてサイダー飲みながら日曜日に観た演劇の感想文を書いた。

5月24日(火)

空も飛べるはず





5月23日(月)


とにかく仕事!

5月22日(日)


落ち込む。

5月21日(土)

工場スタッフとカラオケ。とは言っても一回りも違う坊主たちだから、選曲がやはりスプリット、年相応に。



あしたは休み。ゆっくり寝るべし!




5月20日(金)

同僚とカラオケ。とは言っても一回りも違う坊主たちだから、選曲がみごとにスプリット、年相応に。



あしたは工場が稼働しているから仕事。はよ寝よ、早起きするべし!


5月19日(木)

変わらないもの




ずっと謝りたいと想っていた人に謝ることができた。


ゼロからのスタート!


信頼してもらえるようにがんばろう!!




5月18日(水)

月刊タイガース



開幕当初は野手のレギュラー争いに注目が集まっていたけれど、蓋を開けてみたら投手のレギュラー争いの方がレベルが高く、結果を出す選手が出てきつつある。


岩貞投手、横山投手、石崎投手といった今まで1.5軍だった選手たちが1軍になりつつある。


タイガースはここ15年くらい1.5軍の選手層が異常に厚く、1軍の選手層が異常に薄いという異常な状況が続いているから、そろそろ変革して欲しい。


野手はまだまだみんな決定力不足。誰が抜け出すのか?




5月17日(火)

to Kylie Minogue‬‬




きょうはなんだかカイリー・ミノーグが聴きたくなった☆




5月16日(月)

from cromemolybdan to Pet Shop Boys




きのうのクロムの余韻にひたりながら、きょうは会社への行き帰りの電車のなかでペット・ショップ・ボーイズを聴いた。全然違うけど、デザインや音響や照明に対する意識の高さやセンスが共鳴しあってる☆




5月15日(日)

観劇デー




   


クロムモリブデン『翼とクチバシもください』




感想文:ドラッグ、ダメ、ゼッタイ




5月14日(土)


朝練して、ちょっとだけ仕事するつもりが気がつけば19:00過ぎていたの巻

5月13日(金)


仕事→原稿の打ち合わせ→ハイボール3杯→帰宅→麦茶1杯→寝る

5月12日(木)

蜷川幸雄さん



書店で働いていたとき、いったい誰が読むんだ? という山川出版社の『ロシア史』全3巻をレジに持って来られたのが、蜷川幸雄その人であった。9時間の超大作『コースト・オブ・ユートピア』の公演を控えていた時であった。


ご冥福をお祈りします。

5月11日(水)

NEWS ZERO




きょうはニュースがありません。


5月10日(火)

今日の出来事




きょうはなかなか良い話し合いができた。



仕事のレベルをもうワンランクアップするぜ!


5月9日(月)

今日の出来事



早起きと仕事

5月8日(日)

観劇デー




きょうは1日で2作品を観劇。


劇団イキウメ『太陽』



トレイシー・レッツ作&ケラリーノ・サンドロヴィッチ上演台本・演出『8月の家族たち』


正直、このレベルの作品は1日1本観るのが限界。観る方もちゃんとコンディションを整えて観ないと、せっかくの傑作が消化不良に終わってしまうから。



でも無理してでも両方観てよかった。



さすがに今日中に感想文を書くのは無理だからコメントだけ。






イキウメ『太陽』




イキウメ『太陽』は2011年の初演も観劇した作品であり、内容的にも思い入れのある作品。あれから5年経った2016年の今、観劇したらどう感じるだろう? そう思って観に行った。



もう一つ興味深いことを言うと、『太陽』はいま、


演劇『太陽』



映画『太陽』


とが同時に公開されている。《演劇版》と《映画版》を同時に鑑賞するチャンスというのはめったにないから是非体験して欲しい。



『太陽』は、近未来の日本社会を描いたSF作品だけれども、現代日本の病理を描いた作品と言える。演劇版を観て痛切に感じとったテーマは、



「選択」



言われてみれば、まさにその通りなのだけれど、なかなか自覚できていなかったなー...






『8月の家族たち』




対して、『8月の家族たち』は現代アメリカの病理を描いた作品と言える。アメリカは今、大統領選を控えていて、トランプなんかが出てきている。あれは演技というか選挙で勝つための戦略としてやっているのだろうけど、あの現象がいまのアメリカを象徴している。端的に言って、物語の不在、アメリカはアイデンティティーを喪失している。



「トランプとは何か?」 あるいは「オバマ大統領とは何だったのか?」 というテーマを考えるのもよいけれど、もう少し掘り下げて「アメリカとは何か?」 を考えてみたらよい。その際に『8月の家族たち』は格好の題材となる。単なるエンターテイメントではなく、よく考えられているというか、戯曲が上質で、噛み応えがある。



アメリカって、いつも何かにおびえている。自分たちがネイティブではないという事実が、感覚的にも抜けきらないのだろう。地に足がついていないというか、冷静さを失っていて感情の起伏が激しい。日本に比べたら、自己主張が強く、自分の意見をはっきり言うとはいうけれども、すべてそういった不安の裏返しではないか?



アメリカ的なるもの」



を考えるときに、東海岸/西海岸、NY/LA、ブロードウェイ/ハリウッド、演劇/映画という対比は面白いけど、これらは日本にいながら考えても比較的分かりやすい。



そうではなく、日本にいて一番分かりづらく、それでいて一番興味深いのは、アメリカの南部や中西部。アメリカ的なるものを考える上で、僕がいま一番読みたいのはフォークナーなのだ。でも、じっくり読んでいる時間がないから、いまはカレッジフットボールなんかを観ながら、アメリカの地域性を感じ取ろうとしている。



『8月の家族たち』の舞台はアメリカ南中部のオクラホマ州。カレッジフットボールで、オクラホマ大学やオクラホマ州立大学がそこそこ強いので、僕はどこにあるかすぐにイメージできるけれども、大抵の日本人はオクラホマ州ってどこ? って感じだろう。さらに劇中に出てくる地名が、コロラド、マイアミって感じだから、この作品はアメリカの地域色がかなり強く、日本人にはピンとこない。



これほどアメリカ色の強い作品を日本の劇場で、日本の俳優が演じることにどれほどの意味があるのか? これはなかなか難しい問いだけれども、結果的に非常に面白い体験だった。



何が面白いかについては、ちゃんと書きたいけれども、今日は、さわりだけ説明する。ある文章を読んだ影響で、GW中にソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』をDVDで観たのだけど、これがすごくよかった。ソフィア・コッポラが東京を撮った作品なのだけど、この違和感たるや!



でも、この違和感は非常にいい違和感だったのだ。







『8月の家族たち』を日本で演じる違和感に通じている。



あと内容的には、最近観た演劇のなかでは意外にも月刊「根本宗子」第12号『忍者、女子高生(仮)』とシンクロしていた。



いい作品だった☆






刺激的な日曜日でした。



ありがとうございました!



さて、明日からまた仕事がんばろう☆




5月7日(土)


寝落ち...

5月6日(金)

岩貞投手と吉川投手




きょうもタイガース・岩貞祐太投手は自信を持って投げていた。その勇姿は、2012年のファイターズ・吉川光夫投手を彷彿させる。





10勝をめざぜ!



相手も研究してくるから一筋縄にはいかないけれど、



がんばれ!!




5月5日(木)

演劇『太陽』→映画『太陽』→演劇『太陽』




2011年 演劇『太陽』観劇



2011年 演劇『太陽』劇評執筆



2016年 映画『太陽』鑑賞



2016年 演劇『太陽』観劇予定












2011年 演劇『太陽』 劇評




タイトル:象徴など、何もつかってはいない。




5月4日(水)

続・未成熟問題




これ、僕が考えていたこととピンポイント!



↓↓↓↓↓


矢野利裕「アイドル・ラップをめぐる問題」



ele-king》アルバムレヴュー 矢野利裕・著




泉まくら『愛ならば知っている』





『マブ論』(白夜書房)で、宇多丸さんと小西康陽さんが対談したとき、小西が「アイドル」の定義として、「完成度のなかのほつれ」という話をした。少しまえで言えば、浅田美代子的な、「歌がヘタなのが逆に良いのだ」という「未熟さを愛でる」系の方向。当然、クールジャパン的な議論にも接続されうる。『日本的想像力の未来 ― クール・ジャパノロジーの可能性』(NHK出版)という興味深いシンポジウムと本がありました(東浩紀さんと毛利嘉孝さんの対立が印象的です)。僕は、この「未成熟さを愛でる」方向に批判的です。



(中略)



強調しなければいけないのは、宇多丸さんはじめタマフルに出演していたようなかたたち、あるいは小西さんだって、「未熟さを嘲笑しているわけがない!」ということです。だから重要なのは、本人の意図ではなく、言説。批判すべきは、本人の意図を置き去りにして流通してしまう「完成度のなかのほつれ」という言説のほうなのです。ましてや、SNS社会。いかようにも誤解されてしまう。だからこそ、宇多丸さんは、アイドルの定義/言説自体を修正したのだ。すなわち、「アイドルとは、魅力が実力を凌駕する存在だ」と。



重要なことは、これがヒップホップという「グレート・アマチュアリズム」(ライムスター)な表現形式と関わっていることです。単線的な「実力」ではかられた音楽の歴史を「魅力」によって転倒してしまったのがヒップホップです。泉まくらのレヴューで書いた「誰でもできる」性は、「魅力が実力を凌駕する」性=つまりアイドル性とすこぶる相性が良いのです。



(中略)



「ほつれ」を愛でるのではない。特異性を発見するのだ。語りかたを変えよう。この微妙な違いは、とても大事なことだ。



(『F』17号所収、PP.59-62.抜粋して引用)










ライムスター宇多丸の「マブ論 CLASSICS」 アイドルソング時評 2000~2008

ライムスター宇多丸の「マブ論 CLASSICS」 アイドルソング時評 2000~2008



日本的想像力の未来 クール・ジャパノロジーの可能性 (NHKブックス)

日本的想像力の未来 クール・ジャパノロジーの可能性 (NHKブックス)





5月3日(火)

未成熟問題






きのうテイラー・スウィフトやベビーメタルについて考えていたのは、なにもヘタでもOKというアマチュアリズムを擁護しようという訳ではないし、テイラー・スウィフト星野源がジャンルを器用に乗り換えていくのは、いわゆる渋谷系(まだ誰も聴いていないであろう音楽を片っ端から聴きまくった目利きによる先取り感覚に基づく創作)のリバイバルとみるべきなのか、椹木野衣がいうところの「シミュレーショニズム」(カットアップ・サンプリング・リミックスによるイメージ操作)の延長上とみるべきなのか?



いや、なんか違うような気がする。



それで、僕が考えていたこととドシンクロしていたのが、文フリに毎回だしてる『F』の17号。掲載された論考すべて面白かった。




『F』17号:特集《未成熟問題》




(論文)
樋口康一郎「格差社会と〈未成熟〉  ウェブ小説・地下アイドル・婚活エッセイ漫画」
早川香世「ソフィア・コッポラロスト・イン・トランスレーション』論 「少女性」と東京 
冨田涼介「成熟と滅び 宮崎駿風立ちぬ』論 



この3本滅茶苦茶よかったー


冨田涼介「成熟と滅び 宮崎駿風立ちぬ』論」



宮崎作品における火は、ほとんどの場合、風と対になるものとして描かれる。火が暴力、破壊、穢れ、死などを表現する一方で、風は愛、再生、清浄、生などを表現することが多い。このことから、宮崎作品で繰り返し用いられる美少女/異形という対立も、風/火というイメージの変奏として解釈できるだろう。『風の谷のナウシカ』から『風立ちぬ』に至る宮崎作品は、常に風によって生命を吹き込まれている。実際に『風立ちぬ』においても、風は重要な物語装置として機能しているのみならず、アニメーションそのものの原動力となっている。


(中略)


美しく空を飛びたいという欲望は、美しい飛行機を造りたいという欲望に変化していく。しかしそこには、やはり何か歪なものがある。美しい飛行機を造りたいという欲望を達成するには、人を殺す戦闘機を造る以外に道はないのだ。
ここにおいて、風と火の二項対立は歪に絡み合う。軽やかに風に乗るために、火の力を用いなければならないという矛盾。二郎の欲望は、その矛盾の中でしか生きられない、呪われた欲望である。


(中略)


二郎は万能感と引き換えに自由を手にしたのだろうか。そうではない。二郎にとっての自由とは、美しく飛ぶことに他ならないのだ。しかし同時に、彼はその夢を生きるために、現実世界では殺戮のための兵器を作るしかない。未成熟な子どもの精神のまま、成熟した大人の現実を生きざるをえない、という矛盾。堀越二郎の不気味さは、成熟の不可能性である。二郎はほとんど、子ども時代の美しい夢にとり憑かれた亡霊のようである。


(中略)


風の谷のナウシカ』では神話でしかなかったそれが、一人の青年の生として描き直されたことに、『風立ちぬ』の価値はある。彼岸の暴力が己の手に握られる、そして、空への純粋な夢が火を伴う欲望へと書き換えられる、あの関東大震災の場面こそ、『風立ちぬ』の白眉だろう。それは堀越二郎が成熟の不可能性に向き合う場面であると同時に、宮崎駿を突き動かしていた未成熟の神的な力が現実と向き合う場面である。それはただ単に、未成熟な美しい夢は現実世界では醜い欲望に書き換えられるほかない、ということではない。それは、暴力を伴う欲望として産み直された美しい夢をいかに生きうるのか、という問いであり、そこにこそ宮崎駿の、滅びとほとんど同義でしかない成熟へのわずかな可能性が賭けられているのだ。


(『F』17号所収 pp.40-49.抜粋して引用)






拙著:『風立ちぬ』感想文




タイトル:それでも、生きてゆく







シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫)

シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫)



シミュラークルとシミュレーション (叢書・ウニベルシタス)

シミュラークルとシミュレーション (叢書・ウニベルシタス)




5月2日(月)

文学フリマ・戦利品からの






今回はブースを離れられる時間がほとんどなかったからご近所さんだけゲット。


・ペネトラ8
・クリテカ3
・スピラレ5
・エクリヲ4
・F17
・1篇の詩に対する60日間の考察の記録
・批評再成塾の歩き方



なんやかんや言って、けっこう面白い。これだけ書き手がいれば自分が読んだり観たり聴いたりしていない作品についてもたくさん書かれていて、たくさんの気づきがある。特に自分が弱いジャンルの批評はさらっと書かれた文章でもぐっとくる。



性別は違えど彼は日本のテイラー・スウィフトなのではないかと思う。彼女もまたカントリーという一ジャンルからスタートし、4枚目のアルバム『RED』でポップに寄せ、その次の『1989』ではもはやカントリーのカの字もない、R&Bにも目配せするような素晴らしいポップなアルバムを作り上げた。こうした音楽的な面だけ見れば、その道のりは大いに重なる部分がある。もしかすると、星野にはテイラーほどの計画性はなかったかもしれない。しかし、結果的に一つ一つのアルバムで評価を上げ続けここままで辿り着いた。次作も今作と同様のダンス・ポップになるのか、もしくは新たなジャンルにチャレンジするのかは現段階ではわからない。しかし、このアルバムが星野の一つの到達点であることには間違いない。




ペネトラ8/Cross Review/星野源『YELLOW DANCER』/評者:河野洋平より

なるほど!



以前のテイラー・スウィフトって確かにカントリーにカテゴライズされてるね笑。この前、「ベビーメタルはメタルじゃない」というような論調を耳にしたけど、通じる問題だよな。



テイラー・スウィフト星野源は一つ一つのアルバムで着実にチカラをつけていってジャンルを横断していったということでプラス評価なのに対して、ベビーメタルはアイドルが部活動のノリでメタルやっちゃったーっていうことでマイナス評価なんだろうけど、う〜ん、どうだろうね?



ベビーメタルって、デュシャンじゃないけど、けっこうやっちまってる面があって、「ベビーメタルはメタルではない」をちゃんと論じようと思ったら、けっこう厄介だよ。



アメリカ社会って、ステップをたくさん作って人をふるい分けるというシステムでよのなかを運営している。スポーツなんかはこのシステムと相性がいいように思うけど、ショービズであったり、ロックミュージックって実際どうなんだろう? そこまで競わせて、洗練させる必要ってあるのだろうか? これって人をふるい落とすという目的を除けば意味がない。逆に、結果的に競争を勝ち残った人が不自然にうまいというか、作品自体が不自然に完成されているというような、これはこれでまがい物が生産されてしまう。



スターの誕生とスターシステムは必ずしも一致しない。



最低限っていうのは確かにあるけど、ポップミュージックやロックって、上手だったらいいってものではないし、実力者とまがい物の線引きを厳密にするのは難しいし意味がない。テイラー・スウィフト星野源もベビーメタルも、どちらも実力者であり、またまがい物である。



この現象はジャンルを貫通するというのとは違って、あまりポジティブに言えることではないかもしれないけれど、ジャンルのアイデンティティーよりも計画性(プランニング)の方が勝るという全世界的な生態学的な傾向なんじゃないかなー








5月1日(日)

文学フリマ




今回の文学フリマにも《批評同人誌アラザル》ブースを出すことができました。ご来場頂いた皆様、《アラザル》を買ってくれた皆様、ありがとういございました!














 日記Z2016年6月


 日記Z2016年4月


 日記Z2016年3月


 日記Z2016年2月


 日記Z2016年1月










 阪根Jr.タイガース


 阪根タイガース