2015年11月




11月18日(水)

  最終回






   





毎朝通っているコーヒーショップは店員さんがみんな優しくて大好きなのだけど、僕自身のケジメをつけるために、しばらく行かないようにします。ごめんなさい。そして、いままで毎朝励ましてくれて本当にありがとうございました!!



あと日記もしばらく休もうと思います。すごく自然な流れで、「ああ、ここで終わっていいなー」って思えました。



9月以降はずっとつらくて、どうしたらいいのか、どうなったらいいのか分からなくて、いろいろ悩んでいました。



でも先日、ニコちゃんが「あたしは旦那さまとずっと一緒に支え合っていくんだ!!」という凛とした姿をみせてくれました。



そんなふたりの姿を見て、「なんだ、変な心配をしちゃったよ。あのふたりは大丈夫!!」と分かって、僕もすごく清清しい気持ちになりました。



さて、ここで日記を一度おえて、僕自身もリフレッシュして、また気持ちいい、前向きな文章を書けるようになったら再開したいと思います。ニコちゃん夫妻ともまた舞台で、良い状態で再会できればと思います。



日記はしばらく休みますが、リアルなカラダは元気なのでご心配なく!!









さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。




11月17日(火)

  前へ!!




雨降って地かたまる



お風呂入って肩こりやわらぐ



人生まだまだながいからがんばろ




11月16日(月)

 晴天






「スッキリした顔してますね」って朝言われたけど、自分でもそう感じた。なんかつきものが取れたようで、気のせいかもしれないけど、体重も2kg軽くなった。





仕事も流れ出した。










さて、昨日みた演劇の感想文をブログ化しました。



チェケラ!!!!



↓↓↓↓↓


MCR『我が猥褻、罪なき罪』




感想文タイトル:「人類とは何か!?」




11月15日(

 晴天




きのうは一日寝込んでしまったけど、きょうは疑問が晴れてスッキリした。お互いの認識にズレがあり、1ヵ月ほどの時差があったように思うけど、同じ認識にたどり着けたように思う。本当によかった。



これまでも相手にとっては迷惑なことがあったかもしれないけれど、それは一概に僕のエゴとは言えない。相手がどうしたいのか?分からない、どういう状況なのか?分からない、だから本意ではないことをやらざるをえないということがあった。今日はそのあたりのことが分かったので、大幅に修正を加えることができた。



「う〜ん、子どもじゃないんだからさー、言うべきことは言って、話し合うチャンスをもらえれば、適切な行動がとれたよ」という気持ちが強い。一線を引いて、相手が自分にとってどういう位置づけの人かを分からせるのはセオリーだけど、そのルールが障壁となって、情報不足となり、コミュニケーションがぎこちなくなってしまった。伝えてもらった方がよい、その方がことが円滑に進むような情報でさえも伝えてもらえなかったので、こちらも判断ができなくて、「あのリアクションはこういうことかなー」とか考えて、読み違えて、結果として変な行動に出てしまい迷惑を掛けるということがあった。



これからは良い友達になるというお互いのめざすべき関係の認識が一致したので、すごくやりやすくなる。変に気を使ったり、相手の出方や様子を探って、こちらの行動を決めたり、そういう心理戦のようなことをする必要がなくなる。今後は彼女の才能がいかんなく発揮されるよう、どのようなサポートができるか、僕の役回りもはっきりする。魅力的な女性であるのは間違いないので、今後、家庭に落ち着くのか、まだまだ現役で活躍するかは彼女次第だけど、僕のできる範囲で応援していこう。



お互いがんばりましょう!!








仕事もあったけど、きょうは下北沢に演劇を観に行った。作品もさることながら、観劇中に悶々としていたことがパッと晴れた。本当によかった。



感想をまとめる時間がないから観劇感想連続ツイートをチェックして!!!!

MCR『我が猥褻、罪なき罪』感想連続ツイート




11月14日(土)

雨。今日は誰とも話したくない気分だった。



ここ数日、親身になって励ましてくれているのはすごくうれしい。ありがとう。



でも、1ヶ月前に手紙を渡した時、「がんばれ!!」って背中を押してくれればよかったのに。




11月13日(金)


今日はあめふらなかった!


ホントにありがとね☆



11月12日(木)

もっとがんばらないとって思いつつがんばれてないじぶんといやいやじゅうぶんがんばってるよといいつついやいやもっともっとがんばらないとだめだよっていうじぶん。



くもり。天候のせいか気持ちが沈む。もっと陽に当たれたならば、自信が湧いてきてパッと明るくなれるのだけど、夕方5時くらいになると外はもう真っ暗だから。



家に帰って、きょうはさすがに疲れたからお湯をためることにした。バスクリンの十和田温泉につかる。お湯がにごってるだけで癒される。そして、湯上がりにきょうもみかん!



☆みかんふたつ☆





太陽の恵み。ニコニコ。ちょっとスッパイけど甘くて美味しい。



そして、



なぜか会社にあったうなぎパイ!!





しばし見つめあう



けっこうなげぇーな ほおー けっこうあめぇーな



おいしゅうございました。





さてさて、





今日もありがとう☆



日よう日にむかって



もうひとがんばっていこう!



オー!!




11月11日(水)

 一一一一




朝、行きつけのコーヒーショップのお姉さんに顔色が悪いのを見抜かれる 汗。。。 きのうも工場で同僚に言われた。最近ちょっと寝不足で、やや貧血気味なのだ。



やっぱり分かるもんなんだなー



なんだかすっかりお医者さんだなー 笑





「太陽の光いっぱいあびて!」



「ラジャー!」





とは言ったもののオフィス街ではなかなか思うように陽に当たれなかったよ。



という訳で、





今日もいなげや
みんなのいなげや
困ったときのいなげや明日もたぶんいなげや





太陽の光いっぱいあびたみかんゲット!!!!





☆みかんよっつ☆









☆みかん・みかん・みかん・みかん☆







乱れ食い!!!!











おいしゅうございました。





よい1日でした!





今日もありがとう☆







  《オススメの本》




一一一一一(イチイチイチイチイチ)

一一一一一(イチイチイチイチイチ)




11月10日(火)


仕事を定時で切り上げて、家で仕事を再開するまえにカフェでひとりMTG. 心の整理。悩んでいることをノートに書き上げたらけっこうな量になった。9月と10月はやる事なす事ぜんぶダメという感じだった。11月がスタートして、関係は安定してきたのだけど、心のなかはまだまだ乱高下している。どこへ向かっていこうとしているのか? いまどういう状況なのか? お互いこれでいいのか? よく分からない。「もっとアクションを起こすべきだ!」という自分もいるし、「待つことも大切だ!」という自分もいる。


ノートに書いて、9月,10月を振り返ると自分がすべてを考えて、勝手に決断して、ひとりで動いて、くるくる空回りして、心がぐしゃぐしゃになって、相手の心もぐしゃぐしゃにしてしまった。反省しないといけない。



11月9日(月)

  心で?







11月8日(

時間の逆転現象は可能である。






ゆっくり休んで、よい週末をすごす!!





カフェで、読書・読書・読書。





「久しぶりに本を読んでいる!!」という実感が湧いてきた。



きょうの読書のテーマは「時間の逆転現象は可能か?」。11/4と11/5の日記が今日の読書の問題提起。チェックして!




《問題提起》


後の祭りを祈る(逆向き因果)



ある部族で青年が成人するにはライオン狩りでその力を証明せねばならないので、狩り場に二日かけて行き、狩りの後二日かけてもどる。酋長は彼らの成功を祈ってその間踊り続けるが、問題は、狩りが終わった日から青年たちが帰路にある間も踊り続けるということである。そのとき狩りはすでに終わって事の成否は定まっているのに、踊り続けて幸運を祈るのはどうしてなのか?

ロンドンの宿命論(未来は決定されている)



あなたは爆弾で殺されるか殺されないかのいずれかだ。もしも殺されるのならば、あなたが予防策をとろうととるまいと、あなたは殺されるのだ。したがってこの場合、どんな予防策も無効だということになるだろう。もしも殺されないならば、あなたが予防策をとろうととるまいと、あなたは殺されないのだ。したがってこの場合、どんな予防策も余計だということになるだろう。つまりいずれの場合にせよ、予防策をとることには何の意味もない。

石岡良治論文(石岡さんのこの論文、今はネットで全文読めます)


必ずしも信じていないことを信じているときがある


※ 第2段落が丸ごと落ちてます。以下を補って読んでください。



[第2段落]



「始め」と「終わり」がコード化されやすい理由を考察するために、ゲームを例に取ってみよう。あるゲームに習熟したプレイヤーならば、序盤と終盤については特に「定石」が成立しやすいことに気付くはずである。もちろんこのことはボードゲーム、カードゲーム、テレビゲームの別を問わない。ゲームにおいてプレイヤーが取りうる「手」は、様々な可能性の束から随時選択されることになるが、序盤においては攪乱条件が発生しない限り、最善手を取ることでプレイをうまく統御することができる。他方終盤ではゲームの終了条件へと向けて可能性の束を収斂させるべく、プレイヤーは「定石」を開発することになるだろう(「詰め将棋」あるいはチェスの「プロブレム」)。




   読書スタート




11/4の日記で紹介した酋長の踊りは「現在の行為によって過去を引き起こすことは可能か?」という問いです。



大半の人が「そんなバカなことできる訳がないだろう!」と思うでしょうが、この問いを肯定するにせよ、否定するにせよ、ちゃんと説明するのはけっこう骨が折れることなのです。やってみてください。



ただ、この点に関しては、加地大介さんや佐々木敦さんの本を読めば論点が整理されていて、「酋長の踊り」と「ロンドンの宿命論」を対比させながら、マイケル・ダメットリチャード・テイラー、あるいは大森荘蔵といった人たちの議論を引き合いに出して追って行けば、それなりの結論(結論がないという結論)にたどり着くことができます。



未知との遭遇―無限のセカイと有限のワタシ

未知との遭遇―無限のセカイと有限のワタシ



なぜ私たちは過去へ行けないのか―ほんとうの哲学入門 (魂の本性)

なぜ私たちは過去へ行けないのか―ほんとうの哲学入門 (魂の本性)





しかし、ぼくが気になっているのはこの論点とはちょっと違っていて、なんていうのかなー、例えば、あるプロジェクトに取り組んだ時、「あの時が山場だったよなー、あのとききつかったよなー」なんてメンバー同士で語り合った経験や、あるいは恋愛で、付き合ったり、結婚する以前に「いろいろと感情がぶつかり合ったり、反発しあったりしたけど、あの時、気持ちが通じ合ったんだよね!!」とお互いに勘づいているという経験があったり、なかったり。



つまり「結果が確定する以前に結果が出るという現象が、この世界(宇宙)ではじゅうぶんに起こりうる」というのが、僕がずっと気になっていて、ずっと考え続けていることです。



それで「この問題と『酋長の踊り』は繋がっているよな」って思って、加地さんや佐々木さんの本を読んだり、石岡良治さんの論文を引っぱり出してきて読んだりしました。特に石岡さんが引用していたアリストテレスのいう「初め・中間・終わり」の「終わり(終盤)」は興味深く、「『中盤から終盤への移行』、『どこで定石が導入されるのか(終盤)という特異点のありか』というのは、僕が考えていることとドンピシャだな」と思って読みながら、いろいろ考えました。



ぼくは予言というのには興味がないのだけど、「中盤から終盤へ移行する特異点のありかを探る」ということには興味があって、この現象がもっとも顕著に観察されるスポーツは、好んでよく観ています。



スポーツにおいて、両者が高いレベルで競い合った時に「中盤から終盤へ移行する特異点」がはっきりと観測されることがあって、僕じしん何度か目撃したことがあります。もったいないから、あまり言わないけど、そのなかから1つだけ教えてあげる。






2001年イチロー選手のMLB首位打者獲得の軌跡




2001年、イチロー選手がメジャーリーグに乗り込んで見事に首位打者を獲得したのですが、この首位打者を獲るプロセスは、ものすごく綺麗な軌跡を描いています。


2001年、イチロー選手の打撃記録


結論を先に言うと、1日2安打した日だから覚えているのだけど、7/31が「中盤から終盤へ移行する特異点」です。



この年の首位打者争いは凄まじくて、イチロー選手の能力もさることながら、他のメジャーリーガーのプライドがバチバチと火花を散らしながらぶつかりあっていたんです。そりゃそうでしょ、自分たちよりもレベルの低いリーグからやってきたどこの誰だか知らないやつにいきなり首位打者なんて獲られたら、メジャーリーガーのプライドもクソもへったくれもあったもんじゃないですからね、当然イチロー選手に対するマークは物凄く厳しかった。



それで、この年のイチロー選手の打率の推移を観てみると、結果的には、非常に綺麗なV字型を描いているのですが、問題は打率が下降している最中です。イチロー選手はちょうど7月のオールスター明けから打率を落としていったのですが、落ちているときはどこまで落ちるのかがまったく分からなかったんです。ヘタしたら3割も切るんじゃないかと思いました。やはりシーズン当初から過度の緊張状態が続いており、しかも夢のMLBオールスターに出場を果たしたので、そこで疲れが一気に出たのでしょう。体は正直です。結果が出ないんですね(イチロー選手自身はまったくスランプなんて感じてなかったとインタビューで語っていますが...)。




打率を落とした7月についてのイチロー選手のコメント



ところが、これは僕もはっきりと覚えているのですが、というのは2001年は僕自身、大学を卒業して、設計事務所に勤め始めた年で、非常に高い緊張状態で過ごしていて、かなりストイックな生活をしていたので、スポーツ選手のような高いレベルで戦っている選手の変化も見抜くことができたんです(たぶん今だったら無理です)。それで7/31だったと思うのですが、BSテレビで試合を観ていて分かったのですが、それまでイチロー選手の上半身と下半身の動きがバラバラだったのですが、この日の打席においてインパクトの瞬間に上半身と下半身の動きがピタッと一致したんです。「あっ、治った! 行ける!」と思いました。



その後も非常に厳しい首位打者争いが続き、最後の最後まで首位打者を獲れるか否かは分かりませんでした。しかも、2001年は9.11が起こり、シーズンが打ち切られ、このシーズンの成績が記録から消される可能性もあったのですが、1週間後にシーズンが再開され無事に最後まで行なわれました。そしてイチロー選手は見事に首位打者を獲得したのです。



この時間の流れというのが、本当に時間が逆走しているような感じだったんです。結果はすでに分かっている。まるで過去へ向かって時間が走っているようでした。もちろん、7/31以降に積み重ねたヒットがなければ首位打者は獲れていない。7/31以降に積み重ねたヒットによって(原因)、首位打者を獲った(結果)のですが、結果は7/31に出ていたのです。M.ダメットの「酋長の踊り」とはちょっと違うかもしれませんが、これは「逆向き因果」と言っていいのではないでしょうか? あるいはこの現象は「(未来において)過去を引き起こす」と言っていいのではないかと思います。



さて。僕がスポーツや演劇を好んで観に行くのは、ふつうに楽しいからですが、本当の理由っていうのは、こういうところにあるのです。毎回という訳にはいかないのですが、ときどき、ものすごく高いレベルの試合や作品に出逢えることがあって、「おおっ!!」って心底感動する瞬間っていうのがあるのです。演劇の場合はスポーツとちょっと違うと言えば違うのですが、それはまたおいおい説明するとして、ぼくがスポーツ選手や舞台にたつ俳優をリスペクトしているのは、そういう理由です。はい。



きょうは、こんなオカルトすれすれのことを考えました。



よい日よう日でした!!



いつも励ましてくれて、ありがとう!!



さあ、あしたからまた仕事がんばろ!!











2001 イチローが語る162試合 1




2001 イチローが語る162試合 2




2001 イチローが語る162試合 3




2001 イチローが語る162試合 4




11月7日(土)

仕事は無理をせず切り上げて、カフェで久しぶりに読書。「時間」と「天使」についてお勉強。久しぶりにいい読書。とくに天使の本がよくできていて内容が濃いのだけど、この著者は天使でもないのになぜこんなにも天使のことがよく分かるのだろうか?



   




11月6日(金)


ジムで久しぶりに走る。5km走りたかったけど3kmで、ハァーハァーハァー、もう一度鍛え直そう。。。



11月5日(木)【石岡良治論文要約】

必ずしも信じていないことを信じている時がある。




   



物語には「始め」と「中間」と「終わり」がある。そのうち「始め」と「終わり」はコード化されやすい。これはゲームにおいても同様であり、「序盤」と「終盤」については、特に「定石」が成立しやすい。つまり、ゲームにおいて局面が最も複雑化するのは、中盤である。



プレイヤーが取りうる「手」の選択肢の数が最も増大する中盤において、分岐点は至る所にあり、局面の進行を見極めることが最も困難になる。もっとも、正確に言うなら、「序盤から中盤への移行」と「中盤から終盤への移行」という2つの移行こそがゲームにおける最重要点である。熟練者は「どこで定石が終わるのか」(序盤)、あるいは「どこで定石が導入されるのか」(終盤)という特異点のありかを探り、中盤への、あるいは中盤からの移行を首尾良く成し遂げようとする。



ここで話を物語に戻す。物語におけるナラティヴの進行を統御しようとする様々な試みは、レトリックと呼ばれる。レトリックは、認識的機能を担い、出来事の因果性を操作する役割を担っている。



例えば「愚か者が穴に落ちる」「愚か者が崖を飛び越える」という2つの格言について考えてみよう。前者は賢さの必要性を、後者は愚かさの有用性を示すものになる。ここで両者を分岐させるのは、行為の帰結である。しかし、これらが「教訓」として認知されるのは、本来行為の帰結に基づいて事後的になされるはずの「愚かさ」という評価を予め行為者に指定し、時間を「逆転」するというレトリックによる。



レトリックのこのような機能は、ゲームの中盤におけるプレイヤーの状況と対応しているかのようである。だが、レトリックはいわば「中盤における定石」とでも言うべきものを構成することによって、プレイヤーの役割を代行し、免除する。このように定義上のプレイヤーを必要とするゲームとは異なり、「物語のプレイヤー」という表現は、明確さを欠いている。



ここまでは、格言(物語)におけるレトリックについての話であるが、ここで見られるような時間の逆転、時間の反対進行は、可能であろうか。だが、時間を反転させる試みは、レトリックの統御を越えていると言わざるを得ない。なぜなら、ナラティヴ進行の統御可能性それ自体が、時間は「取返しの付かないもの(純粋時間)」として与えられることを条件としているからである。格言(物語)において、行為者たちは局面の進行を様々なやり方で統御しようとするが、そのつどの局面(純粋空間)を恣意的に設定するわけではない。



この純粋時間と純粋空間が最も良く定義されるのは、ゲームにおいてである。例えばチェスにおいて、純粋時間はプレイヤーの「順番」、純粋空間はチェス盤で繰り広げられる「局面」として現れる。これは、物語にとっても不可欠な成立条件である。



したがって「物語のプレイヤー」を「物語内の登場人物」から区別する必要があるだろう。例えば『オイディプス王』における「逆転」と「認知」の瞬間において、自己の運命に打ちのめされるのは、もちろん主人公のオイディプスである。しかし、運命の反転は、読者に前もって提出されている。ナラティヴ進行に真に立ち会うことになるのは、読者なのだ。だが、厳密には読者が進行を統御するわけではない。他方、時間や局面(純粋時間と純粋空間)は、物語におけるプレイを可能にする条件であり、プレイヤーではない。むしろプレイヤーは、物語によって、そのつど構造的に要請される次元に位置している。



まず第一に、純粋時間や純粋空間が物語を与えるのだが、今度は物語がプレイヤーを与えることになる。「物語のプレイヤー」とは、この二重の贈与によって定義される存在者であり、読者、登場人物、さらには作者といった物語に関与する様々な人称性の次元のそれぞれの位置を占めつつも、それらからは区別されるのである。



こうして「プレイヤー」をめぐるゲームと物語の関係の非対称性が再定義されるに至る。「物語のプレイヤー」は、「始め」と「中間」と「終わり」のそれぞれの進行形式に応じて、逆転や認知のプロセスを用いつつ、物語の局面のそれぞれにおいて、様々な出来事を出現させる。こうした出来事は、ときには純粋時間や純粋空間の条件付けに対してすら作用するだろう。






アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論 (岩波文庫)

アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論 (岩波文庫)


オイディプス王 (岩波文庫)

オイディプス王 (岩波文庫)




11月4日(水)

「後の祭り」を祈る






ある部族で青年が成人するにはライオン狩りでその力を証明せねばならないので、狩り場に二日かけて行き、狩りの後二日かけてもどる。酋長は彼らの成功を祈ってその間踊り続けるが、問題は、狩りが終わった日から青年たちが帰路にある間も踊り続けるということである。そのとき狩りはすでに終わって事の成否は定まっているのに、踊り続けて幸運を祈るのはどうしてなのか?



佐々木敦未知との遭遇筑摩書房pp.161-162.)








未知との遭遇―無限のセカイと有限のワタシ

未知との遭遇―無限のセカイと有限のワタシ




11月3日 文化の日

LINE




あさの電車で親友のY子とLINEしてたのだけど、ま、LINEという文化にまだ馴染んでないから、ほんの数名しかLINEってしたことがないのだけど、ま、いちおうLINEというワザもさいきん身につけたのでたまにやってるのだけど、ま、嫌いじゃない。




Y子は僕のブログをちょいちょい読んでくれていて、YUKIさんの話(11月1日)に凄く共感してくれて、凄く印象的なことを語ってくれた。



Y子:「子供を持つと、全ては必然なんだと思う事が増えるの」




大学時代から知っているY子がすっかりお母さんになっていて、ふたりの子供たちが万歳しているアイコンから、ふと、このような言葉が画面に飛び出してきたので、一瞬ドキッとした。




11月2日(月)

 今日のメッセージ






「がんばって下さい!!」





ではなく、





「がんばりましょう!!」





って書いてくれた。





ほんの少しの違いだけど、すごく嬉しい。ありがとう。





「はい、がんばりましょう!!」






11月1日(

   JOY




11月



新しい月を



新たな気持ちで乗り越えるために



新たなスタートの礎に置きたいのがYUKIさんの歌


飴屋法水さんが教えてくれてこと




YUKIさんの『JOY』という曲に



「運命は必然じゃなく、偶然でできてる」



という一節がある。しかし、YUKIさんは幼い息子を亡くした後のライブでこの一節をこう歌った。



「運命は、必然という偶然でできてる」



息子の死という悲しみを乗り越えるために、「偶然」であると突き放してしまった方が気持ちは楽だろう。しかし、YUKIさんはあえて「必然という偶然」と歌い、息子の死から逃げず、真っ正面から受けとめた。









YUKIさんの悲しみに比べれば、僕の悲しみなんて取るに足らないものだけど、僕にとって9月、10月は悲しいことが続いた。前に出てもダメ、後ろに下がってもダメ、何をやってもダメ。運命に振り回されるようだった。



運が悪い、偶然のしわざだと突き放してしまった方が楽なのだけど、そう思っている限り前へ進めない。偶然を「単なる偶然」として突き放すのではなく、偶然を「必然という偶然」と受けとめて、運命に働きかけていかねばならない。





新たな気持ちで、11月もがんばろう!!

















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