2010年3月(その1)




(3月15日)トークデー


佐々木敦 × 桐野夏生 ×(林芙美子トーク





 


 桐野夏生『ナニカアル』(新潮社)



  






 一抹の雲もない秋の昼の山々
 七彩の青春に火照る木の間よ
 神々も欠伸し給ふ。


 大地を埋め尽す静寂の落葉
 眼閉ぢ何もおもはず
 吾額に哀しみを掬ふなり
 悠々と来り無限の彼方へ
 彼方へ去りゆく秋の悲愁よ。


 刈草の黄なるまた
 紅の畠野の花々
 疲労と成熟と
 なにかある・・・


 私はいま生きてゐる。


 林芙美子




 感想文:林芙美子桐野夏生との間にはナニカアル。




 



■ 3月13日の日記で《文士》という言葉をおそらく生まれて初めて使ったのだけど、僕のなかには《文士》というボキャブラリーはなかったにも拘わらず使ったのだけど、これはもうお分かりの通り『ナニカアル』を読んでいた影響に他ならない。


ついでに言えば《女流作家》という言葉もおそらく僕は今まで使っていない。「女流」というとどうも「女」を強調しすぎる感じがして嫌なのだ。あくまでもインデックスとして「男性作家」「女性作家」という言葉を使い分けている程度である。


ところが、『ナニカアル』を読んで《文士》《女流作家》といった言葉が、僕の体内にするすると潜り込んできて、このような耳慣れない外来語がついに口から飛び出てしまったという始末だ。全ては林芙美子の存在であり、また林芙美子を描いた桐野夏生の存在に因る。特に林芙美子について言えば、《女流作家》と呼ぶのが相応しいように思う。単に「男性/女性」といった性の問題ではなく、なにか「生き様」のようなものを感じるし、「放浪=流れ」でもある。



 林芙美子・女流作家・文士



「性」は持って生まれた性質や宿命を指すが、「流」は「こんなやり方でやってます」という流儀のことだろう。いやなら水に「流」してしまうことだってできる。「女というのはこういうものだと習ったのでそんな流儀でやってます」とか、「でもその流儀はやっぱり面白くないなと思ったので最近ちがう風にやってます」ということで、作風が女流なのではなく、人間として女流な人間が書いた作品をさす意味で「女流文学」と言えばいい。


多和田葉子『エクソフォニー』より

この多和田さんの意見をふまえれば桐野さんを《女流作家》と呼んでも悪い気はしない。



 林芙美子・女流作家・文士


 桐野夏生・女流作家・文士



■ 今日のトークで桐野さんは『ナニカアル』について事細かに語ってくださったのだけど、何故、林芙美子を書こうと思ったのかについても語ってくださった。


誰もが知っている大作家であり、すごい生き方をした女性である。にも拘わらず、どうも良いうわさを聞かない。また研究書は無数にあるし、資料もたくさん残っているけれども、どこか謎めいている、気にかかる存在である。そして林芙美子が亡くなった年は、桐野夏生が生まれた年である,etc.



 林芙美子桐野夏生との間にはナニカアル。



■ 佐々木さんからも指摘があったように『ナニカアル』は最初と最後を除いて、林芙美子が日記を綴るという設定で書かれている。そして文章は一人称なので、日記を綴っている林芙美子に書き手である桐野夏生の存在が重なってくる。桐野さん自身も「書いていて、途中で変な気持ちになった」と語っていたように、読み手も変な気持ちになる。



 『ナニカアル』の文章にはナニカアル。



確かに、林芙美子というおそろしい女性の戦時中のこと、戦地に赴く悲惨な様子が、色恋沙汰も踏まえながら(これは桐野さんのイマジネーションに負うところ大だけど)書かれていて、さらにクライマックスもちゃんとあって読み物としても読者を惹きつけてやまない。


また人気作家が戦地を書くというのは、明らかに戦意高揚のためのプロパガンダに利用されている訳で、芙美子も当然それを分かった上で、あえて書いている。『ナニカアル』にはその葛藤もちゃんと書かれている。しかし、



 『ナニカアル』の文章は、押しつけがましい感じがしない。



これだけの条件が揃っていて、桐野さんの筆力があれば、もっと激しく、読者を捻じ伏せるような書き方もできたと思う。しかし、そうではなく、不思議な距離感が維持されている。これは桐野さんが林芙美子に遠慮しているからではないし、捉え切れてないからでもない。逆に林芙美子信者になって過剰に持ち上げるようなこともない。終始ニュートラル(林芙美子でもなく桐野夏生でもない状態)で書かれている、ように感じられる。



 林芙美子『ナニカアル』桐野夏生



■ ところで「桐野夏生ジュンク堂新宿店に来る!」ということで数日前から興奮状態にあったのだけど、ちょうどイエナに入城したナポレオンを固唾を呑んで見ていたヘーゲルのような気分を想定して待っていたのだけど、実際に桐野さんを間近で見た印象は違っていた。もちろんうわさ通り綺麗な方だったので、そういう意味での雰囲気は十分に感じたし、佐々木敦さんのイベントの会場では見かけないような熱烈な女性ファンが詰め掛けていて、ちょうどタカラヅカのトップスターのような感じでもあったのだけど、でもでも、どちらかと言えば、街中を歩いていてもおかしくない、八百屋でネギを買っていてもおかしくない感じの人だ。例えるなら「『A君のお母さん美人らしいよ』って言われて遊びに行ったら桐野さんが出て来た」というような友達のお母さんぐらいの近いキョリの人だった。



■ そろそろ強引にでもまとめたいのだが、『ナニカアル』というのは林芙美子にとっても桐野夏生にとっても異色な作品である。林芙美子の作品のラインナップにすんなりとは納まらないし、桐野夏生の作品のラインナップにもすんなり納まらない。けれども両者に触れる上で決定的な指標となるようにも思う。イメージとしては《北極星》。



 林芙美子 ⇔『ナニカアル』⇔ 桐野夏生



■ 「今後はどういった作品を書かれるのですか?」という佐々木さんの質問に対して、桐野さんは「『ナニカアル』のように過去のことはもう書かないと思う。未来のこと、なんだかよく分からないことを書いてみたい」とおっしゃっていた。


桐野さんの今後の創作活動にさらなる期待を寄せつつ林芙美子も並行して読んでみようと思う。まずは『女神記』をまだ読んでないから読んで、また林芙美子の『浮雲』を読んでみよう。






ナニカアル

ナニカアル


女神記 (新・世界の神話)

女神記 (新・世界の神話)


東京島

東京島


放浪記 (新潮文庫)

放浪記 (新潮文庫)


浮雲 (新潮文庫)

浮雲 (新潮文庫)


(3月14日)お知らせ

 《書評》日経新聞3月14日(朝刊)






人はある日とつぜん小説家になる

人はある日とつぜん小説家になる




 長嶋有漫画家計画フェア




 



■ 会場:リブロ吉祥寺店




 リア充〉幻想を解体するためのフェア




 



〈リア充〉幻想―真実があるということの思い込み

〈リア充〉幻想―真実があるということの思い込み



■ 会期:3月9日〜4月末(予定)


■ 会場:ジュンク堂書店新宿店(7階23番棚フェアコーナー)


(3月13日)トークデー


古谷利裕(画家)×福永信(小説家)トーク吉祥寺《百年》




いい会でした。古谷さん、福永さん、百年のスタッフの皆さんありがとうございました。いやぁ〜すごい。店主の樽本さんは僕よりも若い方なのですが、本当にすばらしいお店です。みなさまもぜひ!! → 吉祥寺《百年》


さて感想です。小説家というのは、いや評論家もそうですけど、どうも外見を見ただけでは、1冊の本が、300〜400頁という膨大な文章がいったいどこから生まれてくるのか? イメージできないんですね。


これが例えば野球だったら分かるんですよ。スイング1つ見ればすぐ分かる。僕が今まで見たなかでもっとも印象深いのは濱中治選手のスイングで、これはもう本当に一目惚れです。「あぁ、すごいわぁ。プロやわぁ。六大学では絶対見られへんわぁ」って一振り見ただけで思いました。


それで文士はどうかと言えば、書いているところを見られないので分からない。喫茶店マクドで書いてるみたいなのだけど、見たことないから、外面をいくら見ても分からないんですよ!!


今日だったら福永さんは、ちょこちょこと動いていて散歩にも行っちゃったりして、古谷さんはぼーっとしていて、トークが始まるまではいくら観察しても分からない。これは他の作家にも言えることで、前田司郎さんをいくら観察しても分からないし、柴崎友香さんを見ても分からない。こんな小さな女の子のどこからあれだけの文章がスルスルと出てくるのか? イメージとしてはトイレットペーパーをぐいんぐいん回して、トイレが紙で瞬く間に埋め尽くされるという感じなのだけど、う〜ん、やっぱり外面では分からないんですよ。


それが今日のトークを聞いていると、評論と小説、それぞれの創作のプロセスがわかる感じ(濱中選手のスイングを見ている感じ)がして、文章を読むのと同じぐらい充実していました。ただ、なぜ「感じ」というかと言えば、それはハウツーものではないということで、この「感じ」は古谷さん、福永さんにしか当てはまらないからです。「何でこうなるの?」という問いに対して、ちゃんと答えてくれたのだけど、古谷さんも福永さんも独特で、「こうだから」ではなくて「こうなってしまう」という感じで、一言で言えば《癖》ということなんだろうなって思いました。《癖》と言ってしまうと悪い感じがして、確かに放っておくと悪化したり、マンネリ化してしまう厄介なものだけど、この《癖》こそが「作品としての文章を成立させている」わけで、俗に言う《文体》ということなのかもしれない。いやちょっと違うかな? .... う〜ん、とりあえず、やっぱり《癖》としておきます。


今回出版された『人はある日とつぜん小説家になる』は古谷さんの《癖》を多分に感じることができるし、他方、福永さんについては今日、主に話されていた小説は6月下旬に本になるということなので、それまでのお楽しみなのだけど、僕が個人的に福永さんの《癖》を最も感じる作品は「人情の帯」という小説で『コップとコッペパンとペン』に所収されているので、ぜひ読んでみてください。そして感じてください。



「なんでこんなふうになっちゃうのかな〜.....」





 吉祥寺《百年》



人はある日とつぜん小説家になる

人はある日とつぜん小説家になる


世界へと滲み出す脳―感覚の論理、イメージのみる夢

世界へと滲み出す脳―感覚の論理、イメージのみる夢


アクロバット前夜90°

アクロバット前夜90°


コップとコッペパンとペン

コップとコッペパンとペン

 福永信さんの新刊は6月下旬発売予定です!!


(3月12日)チャンス到来


■ 昨年末、東大のゼミで発表した『ハブ型書店の可能性』のレポートを読んでくださった方から原稿依頼が2件も来ました。おお神よ! ありがとうございます。


1つ目の依頼は、僕が書店で棚を作ったり、トークイベントを企画したりレポートを書くといった活動が「批評」としてちゃんと機能していると評価してくださり、むしろこのような活動こそが批評であるとまで言ってくださいました。そして、「いわゆる批評家がやってる批評なんて批評じゃねぇ!」って言ってしまうぐらいの《攻めの原稿》が欲しいとのことでした。(7月中旬締切)


もう1つは、いよいよ電子書籍を無視できなくなってきたので近々特集を組むとのこと。そして、その特集の次の号で、今度は逆の視点からの特集を組むのだと。つまりリアル書店で日々働いていて思うこと、またリアル書店でできることについて、そして「まだまだ面白いことできるじゃないか! 本屋に行こう!」って読者に思わせるようなアイデアを書いて欲しいとのことでした。(3月末締切)


どちらも興味深いテーマなので快諾しました。


お楽しみに!!

(3月11日)無念


■ 3月13日に観劇を予定していた中野成樹+フランケンズ『スピードの中身』、予約チケットの受取に失敗。公演前日までにコンビニで発券してもらえばいいのだろうと思っていたら、発券期限が3月1日となっていて期限切れアウト!「えっマジ?」


今までにも何度かコンビニで発券する方法を利用したことがあるのだけど、それはカードで自動的に代金が引き落とされるパターンだった。でも今回はコンビニでチケット代を現金で払うパターンだったので公演日よりもずっと前に締切が設定されていたようだ。無念。


ただ13日の夜は「古谷利裕×福永信トーク」に行く予定で、かなり強行なスケジュールだったので、このミスをプラスに考えよう。昼は多和田葉子論の作業にあてよう。

(3月10日)知性は国境を越える

■ 引き続き、多和田葉子論下読み。



張競『文化のオフサイドノーサイド』を読む。



多和田葉子論の《核》を形成する3冊が出揃った。



  多和田葉子『エクソフォニー』岩波書店


  水村美苗日本語が亡びるとき筑摩書房


  張競『文化のオフサイドノーサイド岩波書店

■ 最後、張先生に出て来てもらってよかったです。すっかり取り乱して我を失っていたので、もう一度論を練る状態に持っていけるか怪しかったのですが、これで大丈夫。この三冊を再度読み込んで、多和田葉子論の《核》となるものを搾り出したいと思います。なお、水村さんには食ってかかりましたが〈国語〉の定義は使わせて頂きます。



張競先生は、私が最も尊敬する学者の一人です。私と張先生との出会いについては、以前エッセイを書いたのでぜひ読んでください。


 《私と中国》(2007年11月26日)





エクソフォニー-母語の外へ出る旅-

エクソフォニー-母語の外へ出る旅-


日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で


文化のオフサイド/ノーサイド

文化のオフサイド/ノーサイド

(3月8日)

3月3日の日記の記述で、水村美苗氏に対して行き過ぎた発言がありましたので書き改めました。謹んでお詫び申し上げます。






なぜ、あのような軽率な書き方をしてしまったのか? これは私の学歴コンプレックス等を刺激されたからかもしれないが、根本的な考え方の違いからだと思う。


漱石や鴎外を読むことは重要だけれども、当時の漱石や諭吉のように気概と責任を持って仕事を全うするということをいま日本で行うならば、それは果たして英語か日本語かで苦悩することだろうかという疑問である。


例えば、宮崎誉子氏のような闘い方もあると思う。


今までに登録した派遣会社の数は十一社で実際に働いたのは六社なのですが、大手派遣会社だから安心だと思っていたのは最初だけで今は何も期待しなくなりました。


(中略)本のタイトルが『派遣ちゃん』となったのですが、正社員が呼ぶならともかく、派遣の私が同じ立場の仲間を「派遣ちゃん」と呼ぶのは、抵抗があるのです。でも、いま派遣で働いている男の子、女の子たちが身近な話だと思ってくれたらうれしいです。


私の周りで、派遣切りはないです。今のところ。これから押し寄せてくる不安はあります。正直仕方がないと思うんですよ。責任を問われない、時間の融通がきく(実際は問われる、融通もきかない場合が多い)という理由で派遣を選ぶ人もいると思うので、一概には言えないです。あと、私は作家も同じように不安だし、書けなくなった時の保証がなにもないから、希望は自分でみいだすしかない、と思うのですが。


宮崎誉子『派遣ちゃん』おわりにより

漱石や鴎外ですらエリートの限界を露呈しているのは自明なので、水村氏の議論のように日本近代文学を重要視するという文脈から考えても、宮崎氏の取り組みこそが〈読まれるべき言葉〉を生み出している、あるいは今後生み出す可能性が高いとも言える。ただし、宮崎氏の創作活動は、社会を良い方向へ動かす原動力になるかもしれないし、不用意に問題を軽んじられることになるかもしれない。また派遣労働者の励みになるかもしれないし、逆に反発をかうかもしれない。これは文学に力があるのか否かの真価を問われる難題なのである。



今の日本でも優れた文学は書かれているであろう。それは出版もされているであろう。これだけの人口を抱えた日本に、才あり、志の高い作家がいないはずはない。だが、漫然と広く流通している文学は別である。そのほとんどは、かつては日本文学が高みに達したことがあったのを忘れさせるようなものである。昔で言えば、まさに「女子供」のためのものである。かつて日本近代文学の奇跡があったからのみ、かろうじて、〈文学〉という名を冠して流通しているものである。


水村美苗日本語が亡びるとき』 pp.261-262.

宮崎氏等の作品が「女子供」のためのものであるとは述べられてはいないが、少なくとも表面的な言い回しだけで判断して、切り捨ててはならない。



派遣ちゃん

派遣ちゃん


(3月7日)口コミ情報!!!

   いいぞ!福岡店!!


 「売れると思ったのに売れぬ本」フェア


(3月6日)トークデー


トーク仲正昌樹(話し手)×藤原ちから(聞き手)『あえて〈孤独〉であるための読書』。良い会になりました。ご登壇頂きました先生、そしてご来場頂きました皆様、ありがとうございました。(レポートは改めてアップします。)



 



〈リア充〉幻想―真実があるということの思い込み

〈リア充〉幻想―真実があるということの思い込み


教養主義復権論―本屋さんの学校2

教養主義復権論―本屋さんの学校2

(3月5日)Scoooop!!!

■ 斜向かいの某紀伊國屋書店若い書店員たち、たとえばこの人とか、ま、「どんなけ読んでんねん!」って人たちが、なんと《ワールド文学カップの誘致に成功したようです。今日そのパンフレットを持ってきてくれました。



  



すご。



残念ながら日本代表は予選で敗退したそうです。。。ウソです。ちゃんと出てます。日本代表は誰だ???


 ピクウィック・クラブ 第二回フェア



  《ワールド文学カップ

会期:2010年4月1日〜5月17日


会場:紀伊國屋書店新宿本店2階中央催事場

■ おいしいところ持ってかれたなー。じゃ、うちはディアスポラ文学カップでもやろうかなー。










■ 明日はみんなでトークに行こう! まだ空席あるので予約なしでもOKですよ!!! ぜひぜひ!!!

 仲正昌樹(話し手)×藤原ちから(聞き手)


   



■ 日時:3月6日(土)18:30〜20:30(開場 18:00)


■ 会場:ジュンク堂書店新宿店(8F喫茶コーナー)


■ 申込受付: ジュンク堂書店新宿店7階レジカンターにて


        電話予約承ります。 TEL 03-5363-1300

(3月4日)


   トーク《3月6日(土)18:30スタート》ぜひお越しください!!


 仲正昌樹(話し手)×藤原ちから(聞き手)


■ 会場:ジュンク堂書店新宿店(8F喫茶コーナー)


■ 申込受付: ジュンク堂書店新宿店7階レジカンターにて

        電話予約承ります。 TEL 03-5363-1300




■ 朝・多和田葉子論下読み


■ 昼過ぎからレポート作成。意外と時間がかかった。


 《ミニコミ2.0》フェア(まだ開催してます!!)


 《速水健朗×宇野常寛×武田俊(司会)》トーク(09年12月21日)


 《前田塁×新城カズマ》トーク(10年2月18日)

(3月3日)水村美苗氏に対して行き過ぎた発言がありましたので書き改めました。謹んでお詫び申し上げます。

■ 3月6日のトーク本。仲正昌樹『〈リア充〉幻想』(明月堂書店)を読了。この本についてはツイッターでレポートします。






多和田葉子論下読み


多和田葉子『エクソフォニー』(岩波書店)の理解を深めるために、相対的視点を獲得する狙いで、例の本をこのタイミングで読む。



水村美苗日本語が亡びるとき』(筑摩書房



第1章や第4章は興味深いが、第7章はよくない。第1章と第4章の素晴らしさについては改めて書くとして、まずは第7章について私からも意見を述べておく。


現役の小説家である水村美苗氏がなぜこうも上から目線で語ることができるのか理解できない。以下、端的に示す。



日本語が「亡びる」運命を避けるために何をすべきか。
何か少しでもできることはあるのか。
凡庸きわまりないが、学校教育というものがある。


(P.266)

これは誤りである。正しくは、



日本語が「亡びる」運命を避けるために何をすべきか。
何か少しでもできることはあるのか。
凡庸きわまりないが、学校教育について考え直すことであり、また日本の小説家が〈読まれるべき言葉〉を書き続けることである。

こうでなければならない。



本来はこの本が出版される前に、著者と編集者との間で意見を交わし、書き改めるべきであったろう。


なぜこの本がこのような状態で世に出てしまったのか?


出版に関わる皆様、私も含め、しっかりしましょう。





エクソフォニー-母語の外へ出る旅-

エクソフォニー-母語の外へ出る旅-


日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

(3月2日)


3月のスケジュールアップしました。ちょっと地味かな。


ツイッターはじめました

 (3月1日)巣恋トーク

   《3月6日(土)18:30スタート》

 仲正昌樹(話し手)×藤原ちから(聞き手)



   




   《3月15日(月)18:30スタート》

 佐々木敦×桐野夏生



   



■ 会場:ジュンク堂書店新宿店(8F喫茶コーナー)


■ 申込受付: ジュンク堂書店新宿店7階レジカンターにて


        電話予約承ります。 TEL 03-5363-1300




 阪根タイガース日記2010年3月(その2)


 阪根タイガース


 阪根Jr.タイガース