日記Z 2018年6月




6月23日(土)

僕らの心のささえ・髭男爵




山田ルイ53世一発屋芸人列伝』をちびちびと読む。



周囲の人間が家を買ったと耳にし、「俺も、何か後に残るものを」と焦ったが、金が足りずに、仕方なく“墓”を買った。

こいつアホかって、ま、芸人にツッコンでもしゃーないねんけど、こいつほんまアホやなー、こんなヤツばっかりや、アホばっかりやー!



って思うねんけど、こんな感じのエピソードをふんだんに盛り込みながら、とりあげる一発屋芸人を上げて落として最後はうまいことオチをつけよる。よー書けてるわー、この文章。




一発屋芸人列伝

一発屋芸人列伝




書いてるのは、山田ルイ53世、「もとい! ピュアぞーやろ」って思うて、ウィキペディアで調べたら、旧芸名となってる。「ややこしいわー!」、 本名:山田順三、もうこれでええやん。



山田順三、彼は中学の同級生なのだけど、いつやったか忘れたけど、東京に出てきている中高の同級生の間で、「順三が芸人やってるらしいでぇー」って噂になって、ちょうど同級生のお兄ちゃんが東スポの記者をやっていて、同じ中学の後輩が頑張ってるからって、東スポの企画に取り上げて、その記事をみんなで読んだか読まなかったか、なんかそんな感じで盛り上がって、「順三よんで、みんなで飲もうぜー」ってなって、集まって飲んで、そのまま順三が当時付き合ってた彼女か、ファンの女の子かなんかの家にみんなでなだれこんでぐだぐだしてたら、「おれ、きょう岐阜で営業やねん」って言って、明け方、みんなをその子の家に置いて、ひとり帰っていったのをなんとなく覚えている。



大人になった彼は、ぐーたらなのか? 働き者なのか? なんなのか? よく分からなかったけれども、その後、「ルネッサーンス!!!」って威勢よくテレビにも出るようになって、「なんや、あいつ貴族やったんかーい! 心配せんでよかったやんかーい!」って胸をなでおろしていたら、いつのまにか消えていた...






そんな彼を懐かしむように、かすかな記憶を噛みしめるように、この本をゆっくりとゆっくりと読んでいる。



だけど、よー書けてるわー、この文章。これくらいうまく書けるんやったら、ダウンタウンの松ちゃんくらい売れてもええはずやねんけどなー、でも売れへんなー



ちなみに彼は「落ちこぼれて中学を中退した」と言ってるけど、みんな口を揃えて「あいつは頭が良かった」と言う。実際、彼は中1の定期試験で学年4番くらい取ってたんちゃうかなー。そこそこの進学校やったから、東大京大、いや、それこそソルボンヌ大学に行っててもおかしくないくらいの成績やった。



そんな彼が、岡本太郎よろしく、フランス仕込みの芸術的、文学的才能を爆発させて、これくらいの文章を書いたとしても、なんら不思議ではない。



ただ、中学時代を振り返って思えば、彼が不幸だったのは家が遠かったこと。朝5時に起きて2時間以上かけて通学してたんだよなー、そりゃ、無理やわ、続かんわ。



そんで、中学辞めてからの彼の人生は、ホンマ波乱万丈やなー



でも、だからこそ、おもろいんやろなー



進学校ってなんていうか、画一化されてるというか、だいたいみんな人生決まってるんよ。灘も甲陽も六甲も。頭いい子が医者か官僚か学者になって、その次くらいに頭いい子が大手や外資系の企業に就職してって....



いやー、まー、みんな優秀やし、頑張ってるし、えらいねんけど、なんていうか、ま、端的に言うて、おもんないんよ、オレもふくめてみんな。



こういうステレオタイプな見方もどうかと思うけど、やっぱり、「みんなと違ったことをしたかった。もっと面白い人生の歩み方があったはずだ」って気持ちが、みんなの心のどこかにあって、だから、順三、いや山田ルイ53世に、どこかしら自分の人生を重ねて見てる、すっごく無責任やけど、すっごく楽しんで見てる。



山田ルイ53世は、僕らの心のささえやな。



がんばれよー! みんな応援してるでぇー!



なんか、彼のことばに触発されたから、次は川崎洋さんを読もう!






6月9日(土)

ルネッサ〜〜ンス!!







今日も外を走ろうと思ったけれど、あまりにも暑かったのであきらめて、夕方からジムへ。ひっさしぶりにプールで泳いだ。泳げるか不安だったけれど普通に泳げた。どうやら水泳の体幹は鍛えられているらしい。はやくゴルフもそうなって欲しいのだが....



水泳の感触がよかったので、その後フロアに行ってトレーニングを続行。ストレッチとランジを中心に。その後、ランニング。ペースをあげて10km走りたかったけれど、体が重かったので6kmでやめて、その後ウォーキング。総じて今日はいいトレーニングであった。



レーニング後に、行きつけのカフェで飲んだアイスコーヒーがすこぶるうまかった!








さて読書。引き続き人工知能の本を読む。松尾豊さんの『人工知能は人間を超えるか』を読んでいて、興味深い一節に出会った。





1998年ごろ、私は、自然言語処理で有名な黒橋禎夫氏(現在、京都大学教授)の自然言語処理の授業を受けていた。日本のこの分野の研究に多大な影響を与えている研究者だ。自然言語処理だけでなく、データベースやプログラミングの話も多くて楽しかったのだが、機械学習の長い解説が終わった後、黒橋先生は「ま、手法はいろいろあるんですが、結局、いい特徴量をつくるのが実は一番大変で、人間がやるしかないんですけどね」とさらっと言った。


その言葉に、私は頭を殴られたようなショックを受けた。私がずっと考えてきたことをあっさりと言われたからだ。特徴量をどうつくるかが機械学習における本質的な問題であるということを、自分以外の人の口から初めて聞いた。その後、その問題は、特徴量設計として普通に理解されるようになった。(p.137.)




これらの問題は、結局、同じひとつのことを指している。いままで人工知能が実現しなかったのは、「世界からどの特徴に注目して情報を取り出すべきか」に関して、人間の手を借りなければならなかったからだ。


つまり、コンピュータが与えられたデータから注目すべき特徴を見つけ、その特徴の程度を表す「特徴量」を得ることができれば、機械学習における「特徴量設計」の問題はクリアできる。(pp.138-139.)




ディープラーニングの登場は、少なくとも画像や音声という分野において、「データをもとに何を特徴表現すべきか」をコンピュータが自動的に獲得することができるという可能性を示している。簡単な特徴量をコンピュータが自ら見つけ出し、それをもとに高次の特徴量を見つけ出す。その特徴量を使って表される概念を獲得し、その概念を使って知識を記述するという、人工知能の最大の難関に、ひとつの道が示されたのだ。


もちろん、対象は画像や音声だけではないし、これだけですべての状況における「特徴表現の問題」が解決されたとはとても思えない。しかし、きわめて重要なひとつのブレークスルーを与えているのは間違いない。(pp.173-174.)

どっかで聞いたことある話だ。



そうだ! 奥田民生だ!







いや、ちがう....



誰だっけ?



えーと、えーっと、



そう! ヴォーリンガーだ!



混沌不測にして変化極りなき外界現象に悩まされて、これらの民族は無限な安静の要求をもつに至った。彼らが芸術のうちに索めた幸福感の可能性は、自己を外界の物に沈潜し、物において自己を味うということではなくして、外界の個物をその恣意性と外見的な偶然性とから抽出して、これを抽象的形式にあてはめることによって永遠化し、それによって現象の流れのうちに静止点を見出すことであった。彼らの欲求は、いわば自然的関係のうちから、即ち存在の無限の変化流転のうちから、外界の対象を取出すことである。対象において生命に依存せる一切のもの即ち恣意的な一切なものから対象を純化することであり、それを必然的ならしめ、確固不動のものたらしめて、存在の絶対的価値へそれを近寄せることである。
(ヴォーリンガー『抽象と感情移入』)

芸術が自然の模倣であるならば、人工知能は人間の模倣である。



要するにコンピュータがディープラーニングによって、人間と同じように抽象概念を獲得したということですよ。あるいは、コンピュータに抽象作用が観察されたということですよ。



芸術において「抽象作用」が顕著に観察されたのがゴシック美術だから、人間が抽象概念を獲得したのもそんな昔の話ではない。11世紀とか12世紀だから、せいぜい1,000年くらい前の話ですよ。



ここにきて、コンピュータが「抽象作用」をするようになったということは、コンピュータは芸術から1,000年くらい遅れて、じぶんの道を歩みだしたということでしょう。




ま、ここまできたら、次はコンピュータがショーペンハウエルとかを学習しだして、意志が芽生えて、そうこうするうちにコンピュータのルネッサンス到来!







ルネッサ〜〜ンス!!



というわけで、



髭男爵リバイバル



というわけで、



次は、この本を読もう!



ピュアぞー、がんばれよー! みんな応援してるでぇー!






一発屋芸人列伝

一発屋芸人列伝






6月2日(土)

読解力







今日は仕事を休むことにした。アイデアを出し尽くして行き詰まり感があり、体も頭も疲れているのでリフレッシュも必要かと。



まずはジョギング。きょうは天気が良かったのでジムには行かず、外を走った。井の頭公園まで往復14km。まずまずの走りであったが、お腹まわりのお肉はまだまだ落ちない。なかなか手強い。来週末も走ろう。



続いて読書。仕事ばかりしていると自分の身を削るだけで全然面白くないので、仕事に関連する分野の勉強をすることにした。会社の人に勧められた「人工知能」に関する本をごっそり買ってきて、さっそく読み始める。なかなか面白い。





まずは一番読みやすそうな、新井紀子さんの『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』から。僕の学生時代には「人工知能」というか「複雑系」や「システム論」が流行っていて、たしかに『囚人のジレンマ』や『形式の法則』といった本にかじりついた。しかし趣味として読んでいたというレベルで内容がよく分からなかったし、実際にどうしようという感じではなかった。



それがコンピューターの処理能力の向上とビッグデータを扱える環境になったということで、GoogleAmazonといった企業が投資家から資金を集めて、そこの研究者たちがこの分野をガンガン開拓していったということもあり、実学レベルに完全に落ちてきていて、学問としても随分整備されてきたという感じ。



数学者の新井紀子さんが取り組んでいるのは「ロボットは東大に入れるか」という人工知能のプロジェクト。現在機械学習で主流の「ディープラーニング」についてや世界史、数学、英語など各教科ごとのアプローチについての話は興味深い。ただ、もっとも興味深いのはこの本の後半部分。「東大に合格するためにどのような能力が必要か」という問いに対する新井さんの持論。新井さんの結論は、「東大に合格するためには《読解力》が必要」ということだった。



これは僕も同じことを感じていて、東大出身の知人に共通していえる特徴があって、それは「読解力」と「語学力」が必ずあるということ。語学力というと昨今、世間一般の解釈がおかしくなってきているので断っておくけれど、英語に関して言えば、語学力とは英会話能力ではなく、英文を読む力と書く力のこと。いわゆる「リテラシー」のこと。



僕が学生のとき、東大生が羨ましかったのは、彼らには興味深い本があったらすぐに読書会を開くという習慣が定着していたこと。持ちまわり制でレジュメを書く人を立て、その人がまず概要を発表して、その他のメンバーもちゃんと本を読んできていて、解釈について意見を交わしたり、面白い点を指摘して理解を深め合い、その本や理論を攻略してゆく。



あるいは、海外の面白い本があったら、翻訳会を開催する。その本をメンバーで分担して翻訳して、訳文をチェックしながら内容を理解し合い、そして議論する。



僕は語学を最後まで克服できなかっので翻訳会には参加しなかったけれども、読書会には何度か参加させてもらったし、すごく刺激的だった。それと同じことを僕が通っていた私立大学で何度かやろうとトライしたのだけど、なかなか定着しなかった。






久しぶりに学問の本を読んで、学生時代を思い出して楽しかった。



ディープラーニング」という手法はなんだか『Inception』みたいでけっこう面白そう!










 日記Z2018年5月












 阪根Jr.タイガース


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