日記Z 2017年5月




5月20日(土)

マリアの首








仕事帰りに観劇。『マリアの首』作:田中千禾夫 演出:小川絵梨子 @新国立劇場



アウグスト・ストリンドベリ令嬢ジュリー』を3月に観劇して、小川さんの演出が気になったので、今回も観劇してきた。小川さんの何が気になったかというと、良くも悪くもオーソドックスな演出。一見だれがやっても同じようでありながら、「女性の生き方」という自らが探求しているテーマをきっちりと表現している。彼女の演出は、感覚的にクラシック音楽の指揮者に近く、指揮者による微妙な違いを味わう音楽鑑賞と同様に、彼女が作品のなかで、どこを響かせようとしているのか? 感覚を研ぎ澄まして観劇した。



『マリアの首』は、聖と俗が入りまじる戦後の混乱期、被爆地の長崎に生きる3名の女性、鹿、忍、静の三者三様の生き様、女性の実存を描いた作品。三者三様ではあるけれども、三者ともマリア様に祈りを捧げるキリシタン三者三様ではなく、正確に言えば、三位一体なのかもしれない。



横顔に被爆の後遺症が残り情緒が不安定な鹿、かつての男に対する愛憎の念が激しく入りまじる忍、鹿や忍とは対照的に感情をあらわにせず、静かに佇む静。そんな鹿、忍、静はひどい現実(俗)に身をさらされている。



一方、彼女らが祈りを捧げるマリア像(聖)は、今まさに被爆した浦上天主堂とともに撤去されようとしている。そんな世の趨勢(俗)に対して、死の恐怖におびえながらも、自尊心を持ち、自由を求め、先へ先へと将来に向かって強く生きようとする彼女らの姿は、どことなく、マリア様その人を思わせる。鹿、忍、静が、マリア様を逆照射しているよう。






このように『マリアの首』という作品は、日本の社会における「生」をキリスト教という観点で描くという興味深い試みがなされており、構造が非常にしっかりしていて奥深いのだけど、正直に言うと作品の世界に入り込めなかった。なぜならば、端的に今とは時代が違うから。作品で描かれている原爆の悲惨さ、キリシタンが地下組織化せねばならない社会状況が実感として分からなかった。もちろん今でも震災があったり、世界的に見れば悲惨な事件が日々起こっているけれども、やはり『マリアの首』の聖と俗が入りまじる長崎のあの空気が分からなかった。



最近、第一次世界大戦から現代に至る社会の変遷に興味があって「ロシア革命」や「文化大革命」に関する本を読んで、あの頃の社会の空気を知ろうとしているのだけど、なかなか難しい。僕の人生経験で言えば、この殺伐とした、身に迫るような冷たく重い空気は、1985年以前には感じられたのだけど、それ以後は感じにくくなったと思われる。



だから『マリアの首』で描かれている作品の緻密な構造はある程度理解できたのだけど、鹿、忍、静という3名の女性にはあまり共感できなかった。女性の実存と言っても、サルトルボーヴォワールが注目された1985年以前の時代ならばさておき、今だとその主張の強さが、そのまま演劇的に感じられてしまう。



僕が演出家だったら、どう演出するだろうか?



話は変わるけど、帰りに駅前のカフェに寄って、演劇の感想をノートに書いていたのだけど、そこの女性店員さんがすごくいい感じだった。もう22時を過ぎていたので、おそらく明日の仕込みをしていたのだと思う。ケーキ作りをしていて、ボウルに入れた生地を泡だて棒ですごいスピードでかき混ぜていた。それも一所懸命という感じではなく、淡々とやっていたのだ。あんな細い腕で、あんなスピードでかき混ぜたら腱鞘炎になるんじゃないかと心配だったけど、僕の気持ちとは裏腹に、テキパキと平然とやっていた。



そんな女性店員を見ていて思ったのだけど、小川絵梨子さんの演出のスタイルというのは、まさにこんな感じなのではないだろうか。もちろん、田中千禾夫が描いた戦後の長崎に生きる女性を演出する際には、その時代の人物造形どおりに演じることを女優に求めるであろうが、それと共に、どの時代にも通じる、表面には見えない女性の凛とした姿、奥底に脈々と流れる女性の強さを小川さん自身が体現しながら演出しているのではないか。






作品のテーマが難しいので、スッキリした気持ちにはなれなかったけれど、いい観劇でした。仕事をしていても、こんなこと考えないし、仕事だけしていると視野が狭くなってしまうから、観劇は続けた方がいいとつくづく思いました。とは言え、明日は仕事だな。観劇はさすがに無理だな。劇団イキウメのチケットをせっかく取ったのに、キャンセルするしかない 涙 。。。






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