日記Z 2017年2月




2月26日(日)

けっきょく読み始めてしまった




「おまえはきっと知らないだろうが、ゴルフっていうのはとことん奇妙なゲームなんだ。あんな変てこなスポーツってまずないね。他のどんなスポーツにもぜんぜん似ていない。というかスポーツと呼ぶことさえ、かなり無理があるんじゃないかとおれは考えている。しかし不思議なことに、いったんその奇妙さに馴れちまうと、もう帰り道が見えなくなる」






2月19日(日)

ディストピア小説フェア




読書というのは、個々人が自分自身の「読書マップ」を描きながら進める営みである。今読んでいる本があって、次に読む本もだいたい当たりがついている。だから、外から「この本はいいよ」、「こんな本がでたよ」と働きかける行為自体はあまり意味をなさない。新聞の書評や書店でのフェアは、せいぜいふだん本を読んでいない層に本を読もうというきっかけを与える程度の効果しかない。



とは言いつつ、僕も書店で働いていた時は積極的にフェアやトークイベントを仕掛けていた。どちらかと言えば、読者目線というよりも店に活気をもたらすこと、あるいは書き手のモチベーションを高めることを念頭に行っていた。実際、書店でのフェアの売上は大したことなかったし、それでよいと思っていた。それなりの労力を費やすのだからフェアで独立採算を目指すべきだという考え方もあるだろうが、それは無理であっても、フェアをやることで売場全体が活気づくというのは確かだった。来店されるお客様は、フェア棚にある本を買わなくても、ちゃんと見ているし、気に留めている。「ああ、この店はいつもなにかしら企画をやっているな」と感じ、「ああ、ここの店員は商品にちゃんと目を行き届かせているな」と感じとる。売る側もフェアやトークイベントを企画する際には、いちおう扱う本に目を通したし、それをきっかけに商品の理解を深めていた。



僕が書店員時代に手がけたフェアやトークイベントはこんな感じ。



柴崎友香フェア


國分功一郎フェア


中野剛志トークイベント

フェアやトークイベントは、書き手のモチベーションを高めるという点でも、それなりの効果が実証されている。当時はまだ芥川賞を受賞していなかった小説家の柴崎友香さんがフェアを開催後に受賞したり、ま、柴崎さんの場合はフェアを開催した時点で、すでに芥川賞作家のレベルは余裕で超えていたのだけど、それでもやっぱりフェアを開催した小説家が受賞したらうれしい!


ちなみに、先ごろ芥川賞を受賞した山下澄人さんも馴染みの深い作家だけど、僕が書店にいた頃はまだ劇団を主宰している劇作家であって、小説はまだ書いていなかったのでフェアができなかった。残念!


その他、哲学者の國分功一郎さんや経済産業省の官僚で、当時の菅直人首相が安易にTPPに乗っかろうとした際に冷静に論破した中野剛志さん、(現在、日本はTPPに参加する意向を示しているが、その内実は当初からだいぶん修正されている)、彼の初めてのトークイベントを開催できたのは良かったし、その後、中野剛志さんは積極的に理論活動、出版活動を展開されている。






で、前置きが長くなってしまったけれど、なにが言いたいかというと、先日、ふらっと立ち寄った書店で《ディストピア小説フェア》というのをやっていて、並べてある本をパラパラと見て、「いまはそんなにお金に困っていないから本くらい買ってもいいかー」と軽い気持ちで買ったのだけど、読み出すと面白くてハマってしまった 汗...



買ったのは、ジョージ・オーウェルオルダス・ハクスリーフィリップ・K・ディック伊藤計劃といった定番ばかりで、僕じしんフェアで何度か扱ったことのある作家で、以前から読もうと思っていたのに、まだちゃんと読めていなかったから、ちょうど良かった。



これらの《ディストピア小説》が、いま注目されているというのは、アメリカでトランプ大統領が誕生したり、「なんか世界がちょっとおかしくなってきたなー」という動物レベルの勘が働いているというか、それが僕だけではなくて、けっこう感じている人がいるということなのだろう。


これは一種のブームということになってしまうのだけど、なんか煽り立てるようないわゆるブームとは違うし、実際に読んでみて受け取る感触もなんか違う。なんて言うのかなー、例えば、映画の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』がトランプ大統領の誕生を予言していたとか、そういう先取り感覚のリアリティーではない。確かに読んでいたら、ぞくぞくして、あるある感は半端ないのだけど、興奮するような何かというのではなくて、「まあ、そういうことだよなー、そうならないとは言えないよなー」というように冷静に受け止められる。



彼女と話していると、正統の意味をまったく理解していなくとも、正統と見える振舞いをすることがどれほど簡単であるかがよく分かるのだった。ある意味では、党の世界観の押し付けはそれを理解できない人々の場合にもっとも成功していると言えた。どれほど現実をないがしろにしようが、かれらにならそれを受け容れさせることができるのだ。かれらは自分たちがどれほどひどい理不尽なことを要求されているのかを十分には理解せず、また、現実に何が起こっているのかに気づくほど社会の出来事に強い関心を持ってもいないからだ。理解力を欠いていることによって、かれらは正気でいられる。かれらはただひたすらすべてを鵜呑みにするが、鵜呑みにされたものはかれらに害を及ぼさない。なぜなら鵜呑みにされたものは体内に有害なものを何も残さないからで、それは小麦の一粒が消化されないまま小鳥の身体を素通りするのと同じなのだ。


ジョージ・オーウェル1984


まあ、そういうことだよなー




※ という訳で、読書計画を変更します。










2月12日(日)

ゴルフ




スコアどうこうの問題ではない。






2月11日(土)

ブログ化



アマヤドリ『銀髪』



感想文タイトル:アマヤドリ的なるもの




2月8日(水)

ニッパチ(2・8)、時々読書




今月は厳しい。2月と8月はゴルフ業界でニッパチ(2・8)と呼ばれる一年のうちで一番売れない月だ。とは言え、今期のゴール目前なのでなんとか数字をつくっていきたい。受注している製品の出荷を確実に行い、顧客への声かけなど、派手な宣伝はせずとも、できるだけのことはして、取りこぼしがないようにしよう。






読書。猪木武徳『自由の条件』を読了。いい本だった。トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』が非常によくできた本だということがわかった。僕がアメリカから見出そうとしていることをトクヴィルがすでに見抜いて実践的な理論書としてまとめあげている。



アメリカを動かすメカニズムとして、やはり一番重要なのは「個人と国家の中間に位置する第三極(結社)」の存在だろう。


第5章 個人・結社・国家



デモクラシーによって統治される社会では、人々は自己の福祉に関わる事柄だけに関心を払い、私的な世界の殻に閉じこもり、他者への関心を失うようになる。社会的な事柄に無関心な「個人」を、何らかの修練によって公共精神を持つ「市民」に転化しなければ、政治はその無関心につけ込んで容易に「多数の専制」に支配されてしまう。「多数の専制」に抗しうる「市民」を生み出すための具体的な社会装置 (democratic expedients)として、トクヴィルがまず重視したのが、先の第二章で取り上げた地方自治の徹底であった。彼が同じくデモクラシーへの「重石」として注目する「結社(associations)」、あるいは「二次的団体」「二次的諸権力」と彼が呼ぶ「中間組織」の機能および存在意義を本章では検討することにしたい(p.107)




これまでの議論で単に「結社」と呼んできた「個人と国家の中間にある集合体」が、いかに多種多様な団体を含むか、その実例を見ておく必要があろう。教会、クラブ、ロッジ、聖歌隊、互助組合、スポーツ・ティームなどから政党まで、そのカバーする範囲は極めて広い(p.121)




元来、個人主義(individualism)を推奨してきた米国人は、他面、常に「何かに所属する」という必要性を感じてきた。「個人個人で」よりも「集団の努力」を通してより多くを達成できることを知っているがゆえに、アメリカ合衆国では、最も強大な社会的な力のひとつとして結社(associations)が形成されるようになったのである。(p.121)



猪木武徳『自由の条件』より引用


2/4の日記で取り上げたカレッジフットボールでいうところの「大学」や、先の大統領選の結果をうらなう上でその動向が注目されていた宗教団体(「教会」)が、地域コミュニティーの核であるというに留まらず、アメリカという国を動かす動力(パワー)として今もなお機能しているという点を見逃してはならない。



例えば、今シーズンのカレッジフットボールで名門復活を遂げたペンシルベニア州立大学(PSU)の所在地をググってみてもらえばわかると思うが、ペンシルベニア州立といっても、大都市であるフィラディルフィアからもピッツバーグからも遠く離れた辺境地にある。こんな辺鄙なところで開催される大学生のフットボールの試合に10万人を超える観客が集うというのは、およそ信じがたい。



とはいえ、以下のような問題も起こっている。


國分功一郎さんのツイート(2017.2.3)



(「中間領域」)「中間団体」と言ってもよいと思います。グローバリゼーションは中間団体を破壊する傾向があります。というのも、中間団体は様々な規制、場合によっては「既得権益」とも切り離せないからです。うまくバランスを取りながら中間領域を創造していくことが大切だと思います。

なるほど。國分さんが言うように、アメリカにおいてもグローバリゼーションの打撃で「中間団体」の力が弱っているのは確かであろう。ただ、そもそも「中間団体」が根付かなかった日本、教会や大学が地域コミュニティー、人と人との結節点として機能していない日本とは違い、アメリカの「中間団体=結社(associations)」はもう一度パワーを吹き返すのではないかと思うし、アメリカの政治も紆余曲折はあっても、最終的にはそのような方向に動くのではないかと予想する。



さてさて。次に読む本だけど、この後、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』やジェイコブズの『アメリカ 大都市の死と生』へ進んでもよいのだが、日本を動かすメカニズムについても考えてみたい。



日本人の行動原理には、「神」「仏」「儒」という3つの思想の流れがある。なかでも日本のビジネス界のリーダーは、孔子三国志の武将を好む傾向があり、「儒学」の影響下にあるように思う。



儒学」は僕自身のウィークポイントでもあるので、数年前のベストセラー、渡辺浩『日本政治思想史』をこのタイミングで読んでみよう。






2月4日(土)

トクヴィル




ちょっと時間ができたので読書。トクヴィルを勉強したいと思って猪木武徳『自由の条件』を読み進める。なかなかよい。この前、哲学者の國分功一郎さんもこんなツイートをしていた。



俺はホッブズスピノザ、ルソーの路線でやってきたけれども、時代はモンテスキュートクヴィル、そしてアレントの路線を必要としていると痛切に感じる。

やっぱりと思った。國分功一郎さんの『スピノザの方法』は、僕のデカルト信仰を揺るがせた決定的な一冊なのだけど、その著者である國分さんがトクヴィルというのだから、トクヴィルを読まないわけにはいかない。



トランプ大統領がどうなるかは知らないけれど、「アメリカの国力(パワー)は回復するのか?」には興味がある。僕が思うに、アメリカにはジェイコブズ的なボトムアップ(議論の枠組みとしてはポストモダン的な近代批判)ではなく、アメリカ的なボトムアップのメカニズムがあると考えている。僕はそれをニューヨークという大都市ではなく、全米で繰り広げられているカレッジフットボールをこの数年ウォッチすることで見出そうと考えてきた。





ジェイコブズの議論もちゃんと追いかけた訳ではないので、どこかのタイミングでじっくり読んでみようと思うが、まずはトクヴィルから勉強しよう。



デモクラシーの社会がどのような人間を生み出すのかを考察することによって、「平等化」の行き過ぎや欠陥を是正できれば、自由と平等の両立は不可能なことではない。そうした民主制社会における自由と平等の両立という難問を取り出し、その解決方法を探ったのが『アメリカのデモクラシー』という作品なのである。


猪木武徳『自由の条件』p.11.



カレッジフットボール考









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