日記Z 2016年10月




10月31日(月)

宮本慎也日本シリーズ戦評




厳しいけど、確かな批評眼




10月30日(日)


日本シリーズは終わったが、ワレの仕事は終わらない。。。

10月29日(土)

日本シリーズ




北海道ファイターズファンのみなさん



おめでとうございます!!



恐ろしく強いチームだったな



冷静というか、したたかというか...



気持ち的には今日の第6戦に大谷投手を先発させて一気に決めてしまいたいところだが、第7戦、カープは黒田投手が控えている。もし、今日負けると明日は球場はおろかマスコミも黒田投手に勝って欲しい、カープに勝たせようという雰囲気になってしまう。その黒田投手を抑えるとしたら大谷投手しかいない。大谷投手はこれからが期待される投手なので、展開によっては大谷投手に勝たせようという雰囲気にできる。



結果的には今日で決まったけれども、今日負けても明日まだいけるという気持ちが選手にもあったから、ファイターズの選手はリラックスしてできたのだろう。今日はカープの選手の方がガチガチだった。



あと、ファイターズはチームの統率力が恐ろしく高い。相手投手の配球やバッターの得意なコースや球種といったデータだけではなく、選手の性格や癖までもデータとしてとっていて、それを選手が把握しているという感じがした。



例えば、カープ・中崎投手はやさしい性格。あそこまで露骨にとは言わないけれど、「もし相手が隙をみせたら威圧しろ」というくらいの指示は出ていたと思われる。そして、そのあとは球威が落ち、コースが甘くなる。当然「打て」のサイン。アクシデントのようだけど、完全に狙い通り。



栗山監督は、そういった数字に現れないデータも活用して、戦術を立てるし、自らのチームの選手を育て、起用するプラグマティスト。千葉マリーンズボビー・バレンタイン元監督に似ていて、実はメジャーリーグにはけっこう多いタイプの監督。



ふむふむ



興味深い



そして


やっぱり野球は面白い!!


10月28日(金)

ゼロからのスタート




何を言われようと



結果を出すのはオレたちだ!


10月27日(木)

消費が鈍い。



目の前の仕事をこなすだけではなく、世の中の動きも観察しならがら、自らの行動を決める必要がある。



夜はカフェでひとりMTG.



目を閉じて音楽を聴く。





10月26日(水)


くしゅくしゅと

10月25日(火)


粛々と

10月24日(月)

生活のかたち




まだまだ厳しい状況に変わりはないが、生活のかたちができつつある。



5:00 起床
7:00-19:00(20:00) 仕事
20:00-21:30 ジム
21:30-23:00 読書(ひとりMTG
23:00 就寝

がんばろう!


10月23日(日)

日本シリーズ




カープ強いなー



ファイターズがあれだけミスをするのだから、目に見えないプレッシャーをかけているってことやろなー



それで、昨日の広池浩司投手の「入団への道」が好評だったので、もう一丁!!






2008年4月28日 入団への道(6)



今日は、午前中に大野練習場で練習をした後、名古屋へ移動です。移動の時間があるので久しぶりに「入団への道」の続きのお話をさせてください。前回は、4月17日の更新分で、ドミニカ共和国行きが決まり、選手契約の可能性が復活したところまでお伝えしました。


私は、12月を埼玉の実家で過ごしました。キャンプに参加したことにより、動くようになった体をなまらせないために、トレーニングは続けました。


最初は、突然の全日空退社、プロテスト受験という事態に戸惑っていた家族も、元々は野球に対する理解があるので、その頃には、心から応援してくれました。特に、小さい頃、私を野球に導いた父と、私の影響もあってか野球好きになった姉は、私のプロ挑戦を喜んでいるようでした。


ちょうど1年前、帰省客でごった返す羽田空港で接客に追われて大忙しだったのとは対象的な、静かな年末年始を過ごすと、いよいよ出発の日がやってきました。


1998年1月8日。私たちは、成田空港を11時出発のニューヨーク行きの飛行機で日本を離れました。日本からドミニカ共和国への直行便はないので、米国を経由していきます。一緒に旅立ったのは、白武スカウトと、トレーナー、ドミニカのアカデミー担当の社員、そして選手は、新人の遠藤竜志、小林幹英、1年目から6勝を挙げ飛躍を期待される、2年目の黒田博樹でした。球団からすれば、期待の投手ばかり。温かいドミニカでしっかり肩を作って、キャンプ、オープン戦でしっかり投げてもらうための自主トレでしょう。そんな中に、テスト生の私も少しだけ仲間に入れてもらうことになりました。約12時間の長いフライトの間、私はつくづく思いました。


「よく、ここまで来た。やはり、一番最初の市民球場での入団テスト。あの日の奇跡があったからこそ全てが始まった。しかし、今になって思えば、あの日の奇跡は、学生時代、野球に対して全力で取り組み、野球に全ての情熱を傾けたからこそ起きたのではないか。そうだ、全てが偶然な訳ではない。だから胸を張っていこう。さあ、頑張るぞ。大きなチャンスを掴むために」


私たちは、ニューヨークの空港近くのホテルに1泊し、翌日にドミニカ入りしました。ドミニカはとにかく暑い。一応北半球なので冬のはずなのですが、真冬の日本からやってきたこともあり、その温度差には驚きました。空港から滞在予定のホテルまでは、カープアカデミー所有のマイクロバスで向かいました。窓からは、見たこともないくらい青いカリブ海と、どこまでも続く熱帯雨林が見えました。


「凄いところだ。こんなところにずっといたら性格が変わりそうだ」


練習は翌日から始まりました。初めて訪れたカープアカデミーはとにかく広大でした。試合ができるグラウンドが2面、内野守備練習が可能なサブグラウンド、屋根付きのブルペン、打撃練習が可能な室内練習場、ドミニカ人選手が寝泊まりする宿泊施設と、広い食堂。そして、各施設の周りに広がる大きな草原。その草原には山羊が放し飼いされ、のどかな雰囲気を醸し出します。さらに、その草原の外側いアカデミーをぐるっと1周する「外周」と呼ばれる道があって、投手がランニングに使っていました。


カープアカデミーの選手たちは、その日、試合をやっていました。もう一つのグラウンドは、ボストンレッドソックスのアカデミーに貸しているらしく、あの伝統のユニフォームを着た選手たちが、練習に励んでいました。


黒田、幹英、遠藤、そして私の4人は、初日ということもあり、サブグラウンドでキャッチボールやランニングなどの軽めの練習で引き上げました。それでも、眩しい日差しと暑さのせいでみんな汗びっしょりでした。


ホテルに戻った、午後のことでした。部屋の電話が鳴りました。


「もしもし、広池さんですか? 黒田です。ちょっとプールへ行きたいんですが、日焼け止めを持っていませんか?」


黒田とまともな会話をしたのは、これが初めてでした。空港で会ったときや、グラウンド上では挨拶程度で会話はありませんでした。


当時の私にとって、黒田は憧れのプロ野球選手。全日空に勤めていた時に、テレビでたまたま黒田の東京ドームでの初勝利を目撃して以来、注目していた選手でもありました。私は、電話が掛かって来たこと自体嬉しかったし、プロ野球選手が私の存在を認め、名前を呼んでくれたことが不思議な感覚でした。この文章を読んでくださっている皆様なら、この感覚を分かって頂けると思います。


幸運なことに、私は日焼け止めを日本から持参していました。


「日焼け止め持ってるよ。今からそっちの部屋に持っていくよ」


「いえ、自分が取りに行きますよ」


「いいよ、いいよ。俺が持って行くから、部屋にいて。すぐに行くから」


「わかりました。じゃあ、お願いします」


私は、日焼け止めを持って大急ぎで黒田の部屋に向かいました。日焼け止めを手渡すと、今では考えられないくらい丁重に礼を言われました。話を聞けば、黒田自身が持っていた外国製の日焼け止めを、午前中の練習で塗ったところ、肌に合わず困っていたそうです。私が持って行った日焼け止めが、日本製であることを知るととても喜んでいました。


私は、プロ野球選手の役に立てたことが、嬉しくてたまりませんでした。部屋に戻って、日本製の日焼け止めをドミニカまで持って来た自分を、自分で褒めてやりました。


「よくやった。でかしたぞ!」


その日の夜は、選手だけでホテルのビュッフェで食事をすることになりました。途中までは、何事もなく食事は進みましたが、黒田がジュースのあるコーナーに行った時に事件は起きました。黒田がそのコーナーにいた係員にジュースをくれるように、ジェスチャーを交えながら頼んでいますが、係員は一向にジュースをコップに注ごうとせず、黒田に向かって一生懸命何かを説明しています。ドミニカ共和国公用語は、スペイン語です。現地に着いて2日目の私たちにとって、それはまさに未知の言語。何を伝えたいのか、想像もつきません。英語なら何とか乗り切れるかもしれないと思って、チャレンジしてみましたが、全く通じません。


一同困惑していると、黒田が怒った口調で言いました。


「もういい! 自分は帰ります」


黒田は、帰ってしまいました。私は、とても残念に思いました。そして私は、考えました。


「もうこんな思いはしたくない。早くスペイン語を身につけよう。帰るまでには、簡単な日常会話くらいはできるようにしよう」


私は、部屋に帰って早速、日本から持ってきた「スペイン語入門」の教材を開きました。CD付きだったのでこれまた持参した小さなステレオを使って、発音の練習もしました。


「いずれにしても、2月からは、選手は自分1人だ。少しくらい理解できるようにしておかないと、野球にも支障をきたすぞ」


それから毎日、少しずつのスペイン語の勉強も私の日課となりました。


後日わかったことなのですが、あの時のジュースコーナーにいた係員は、そこに置いてあるジュースを飲むにはお金がかかるので、現金にするか、部屋付けにするかを聞いていたそうです。それなら、金額を明記したメニューでも準備しておいてくれれば、何となくお金がかかることくらいは理解できたはずなのですが..... 。でも、それこそが日本人的な感覚であって、南国特有の、おおらかで、のんびりとした性格のドミニカ人にこういった感覚を押し付けてはいけないのです。


黒田が、メジャーリーグに挑戦すると聞いたとき、すぐにこの「ドミニカ・ジュース事件」を思い出して、海外での生活面で苦労しないか心配しました。しかし、それは杞憂に終わりそうです。私の心配をよそに、名門ドジャースの先発投手として、立派にその役目を果たしています。


考えてみれば、もうあれから10年もの歳月が流れています。野球選手としてだけでなく、人間としても、ひと回りも、ふた回りもスケールアップしたのでしょう。流石です。これからも、大舞台での奮闘に注目していきたいと思います。


名古屋に着いたので、今日はここまでにします。


私も、黒田の奮闘を励みに、精進していきます。

10月22日(土)

カープ広池浩司投手




カープっていうことで広池浩司投手の本を久しぶりに読んでいる。





プロ野球選手になる夢をあきらめきれず、サラリーマンで入団テストを受けて合格。しかも高校・大学時代は野手だったのに投手でテストを受けて合格したという異色の選手。スター選手ではなかったけれど、カープの象徴のような選手。そして彼はいい文章を書く!!






2008年4月8日 入団への道(2)



今日のヤクルト戦は、雨のため中止になりました。チームは、16時くらいから神宮の室内練習場で練習をして、明日に備えました。試合が中止になり時間ができたので、ご要望が多かった昨日の電話の続きをさせて頂きます。


1997年9月。


市民球場の入団テストが、終わりました。奇跡の合格です。球場を出た私は、まさに夢心地で平和公園を何をするわけでもなく歩き回りました。


「プロになれるかもしれない」そう考えると、今まで経験したことがないくらいの胸の高鳴りを感じました。ただ、今振り返ると、この日私は入団への長い道のりの第一歩を踏み出したに過ぎませんでした。


平和公園でいつまでも余韻に浸っていた私でしたが、帰りの飛行機の時間が迫っていることに気付き、バスセンターからリムジンバスに乗り、広島空港へ向かいました。私は会社の休みを利用して、当時住んでいた横浜から、自社の飛行機(当時全日空の社員であった)を使い1泊2日の旅程で広島に来ていました。


宿泊は、羽田空港の旅行代理店で調べて見つけた、駅近くのビジネスホテル。飛行機は、自社の便なので空席があれば、無料でした。帰りの飛行機の中で、休みを利用しているとはいえ、誰にも言わずに入団テストを受けに行き、何事もなかったかのように、座席に座っている自分に少し罪悪感を感じました。


次のテストは、10日後くらいに再び広島に出向き、大野練習場で2日間に亘って行われることになりました。日程は会社の休みに合わせてもらいました。


市民球場でのテストが終わってから、次のテストまでの約10日間は、とても長く感じました。入団テストを受けたことは、全日空の人には話していません。「入団テスト受験中」であることを胸の内にしまい込み、会社で働く私に対しても、職場の先輩達は、今までと何も変わることなく暖かく接してくれます。正直、心が痛みました。「黙っていていいのだろうか?」苦しい日々でした。でもこの先どうなるか全く分からない状況で、テストのことを話すことはできませんでした。


次のテストの日がやってきました。また後ろめたさを感じつつも、全日空機に乗り込み広島へ向かいました。テストは2日間連続で、ブルペンでのピッチングを見せることでした。投げ終わっての評価は「前回の市民球場のときよりは、良くなかったね。でも、全体的には、まあまあだったよ」というものでした。


まあ、その評価も当然です。市民球場での投球は、私にとっては信じられないくらい良い出来であり、奇跡に近いものでした。プロレベルから見れば、素人同然の実力しかなかった当時の私は、投げれば投げるほど化けの皮がはがれる状態でした。逆にいえば、当時の力からすれば、その大野練習場での2日間も、充分に実力以上のものが出せたと思います。


合否の発表はありませんでした。ただ「また、こちらから連絡する」と言われただけで、大野練習場を後にすることになりました。


スカウトやコーチの反応を見ると、正直、手応えはありませんでした。「もう駄目かなぁ」少し暗い気持ちで帰りの飛行機に乗り込みました。仕事に戻ってから数日後、カープから連絡がありました。「話があるから、東京でうちのスカウトと会ってくれ」とのことでした。


期待と不安が交錯する、複雑な感情を抱きました。待ち合わせ場所は、渋谷の中華料理店でした。待っていたのは、当時、関東地方のスカウトを担当していた渡辺さん。私は緊張していました。「一体どんな話なんだろう」渡辺さんは口数の少ない人で、話は、いきなり核心へと向かっていきました。


「これを見てくれ」渡辺さんが差し出した紙には、当時、カープに在籍していた投手の名前が、右投げと左投げに分けて、年齢順に並べてありました。「来年、君は25歳だね。うちには君より若くて潜在能力の高い投手がたくさんいる」さらに「今後、入団テストを継続するとしたら、今度は、11月の秋季キャンプに1ヵ月参加することになる。会社勤めの君には難しいのでは」


口調はとても優しいのですが、内容は厳しいものでした。はっきりは言わないものの、私には、入団を断りに来ているようにしか聞こえませんでした。私は焦りました。こんなチャンスはもう二度と来ないことは分かっていました。


逃してなるものか。


私は、必死になって野球への情熱を訴えました。最後は「選手でなくても構いません。何でもしますからプロの世界で働かせてください」と言いました。これは、私の心の叫びでした。プロ野球の世界への憧れは、もはや頂点に達していました。


渡辺さんは困惑しているように見えました。でも、優しい人でした。私の話を最後まで聞いてくれました。結局、その日は結論が出ないまま、別れることになりました。


「もう駄目だ」これが私の感じた正直な感触でした。


思えば、市民球場での入団テストに合格して以来、私の心の中では、プロ入りへの夢が膨らむ一方でした。勝手に、プロ入り後のことにまで思いを馳せる自分もいました。しかし、その日、現実を突き付けられました。夢はやはり夢で終わってしまうのか。暗い気持ちで、当時住んでいた横浜の全日空寮に戻りました。


すると、目に涙が溢れてきました。しかも、どうしたことか、いつまでたっても涙は止まりません。こんなに涙は流れるものなのか。


生まれて一番泣きました。
まさに、涙枯れるまで泣いた後、私は決意しました。


「会社を辞めよう」


それでも入団テストを継続してくれる保証はありませんでしたが、とにかく、誠意、熱意を見せることで何かが変わってくれることを願うしかありませんでした。もはや自分の意に反して溢れ続けた涙が、私にとって野球というものがどれだけ大切なものか、気付かせてくれました。


後戻りできない状況に身を置くことに、不思議なくらい怖さはありませんでした。それどころか、心の中に静かでありながら決して消えることのない、炎のような闘志を宿した感覚を覚えました。


「何も怖くない。もう前に進むだけだ」


そう決意した11年前の秋の夜でした。


今日はこの辺にします。続きはまた後日。
今日も、長い文章を最後まで読んで頂きありがとうございました。

10月21日(金)


練習あるのみ。そして明日も朝練に行くでござる!

10月20日(木)

原風景



飯田橋駅のなが〜いスロープがなくなったらしい。大学を卒業して今はほとんど行かなくなったけれど、6年間ほぼ毎日通っていた道。僕の東京の原風景でもある。


関西から東京に出てきた時、「東京って案外古い街だな」と思わせるところが随所にあって、飯田橋御茶ノ水も下北沢も代官山も渋谷も、レトロな感じのする場所だったけれど、さすがにそうではなくなりつつあるのだな。


10月19日(水)


ヒートテックはちょっと早すぎたかも...

10月18日(火)

黒田世代




黒田(上宮)引退かー



西宮少年野球のスーパーヒーロー大村(育英)が去って、



直行(報徳)が去って



由伸(桐蔭学園)尚成(修徳)も



金子誠常総学院)井端(堀越)も



平井(宇和島東)憲伸(徳島商)岡島(東山)も



大家(京都成章)建山(東海大仰星)も去って、



あと同学年で現役でいるのは上原(東海大仰星)と稼頭央(PL)と福浦(習志野)くらいかー



ま、でも、この学年はメジャー経験者がめっちゃ多いなー



誇らしい!!

10月17日(月)


最近あまり見かけないけれど、元気か?

10月16日(


休息日。


ゴルフ観ながら部屋の片付けなど。


月が綺麗。




10月15日(土)


全ての豆腐は四角い
若干の四角いものは白い
この白兎ははねる


はねるものは蛙である
赤蛙は青くない
青柳は無情である


無情なものは幽霊である
もし幽霊が無情であれば幽霊は消える
消えるものは幽霊か電灯かのいずれかである


電灯は光るものであろう
電灯はたしかに光るものである
光るものは必ずおやじのはげ頭である

10月14日(金)


テーマがないと本は読めない。さて、何をテーマとしようか?

10月13日(木)


ボブ・ディランノーベル文学賞を獲った。南部じゃなくて北部のミネソタ州出身なんだよな。興味深い。

10月12日(水)


朝から夜までお仕事でした。

10月11日(火)


仕事のモチベーションは、家に帰って寝ること。

10月10日(月)


仕事を始めたら終わらない。

10月9日(


悪い芝居を観た。つらい芝居だった。

10月8日(土)

Learn from Big band system



きょうも会社に行く予定だったけれど、気持ちが入らなかったので、割切って休むことにした。朝練をして、ジムにいって、カフェでひとりMTG. 久しぶりに本も読んだし、仕事のことやプライベートのことをいろいろ考えた。


今は仕事が正念場だからプライベートを犠牲にしてでも頑張るけれど、もう少しなんとかならないかという気持ちが強い。結果を出すためにはメンバーの気持ちが通じ合っていないとダメ。それなのに、みんなの気持ちがバラバラだし、みんなで共有できるイメージがない。


ベンチャー企業に勤めてけっこう時間が経つけれど、正直やっていることはふつうの会社となんら変わらない。スーパーな能力を求められることはなく、目標を達成するためにやるべきことを行うよう求められ、やるべきことを、できることを粛々と行い続けている。ベンチャー企業にも色々あるから一概には言えないけれど、どこも似たようなものだろう。


確かに、数年前、ホリエモンや三木谷が出てきたころは、何か一人の天才をもてはやす雰囲気があった。アメリカでも、ビル・ゲイツスティーブ・ジョブズからマーク・ザッカーバーグに至るまで、いつの時代も寵児が必ず出現するし、その出現を煽り立てる動きはずっと続いている。今でもジェフ・ベゾスイーロン・マスクといった一人の天才発世界へといったビジネスモデルの成功事例がそれを裏付けているし、このようなビジネスモデルというのはアメリカの帝国主義的な気質とマッチするのであろう。


しかし、その一方で風向きの変化も感じている。今行われているアメリカ大統領選をみて多くの人が感じていると思うが、こんなにレベルの低いアメリカ大統領選は未だかつて見たことがない。アメリカでは珍しく消去法で大統領が選ばれようとしているし、トランプは論外だとしても、もしヒラリーが選ばれても、彼女に世界のリーダーが務まるようには思えない。


これはアメリカの凋落というわけではなく、これが現在の世界情勢の現れなのだろう。世界的に強力なリーダーが君臨できなくなっているし、またそのような存在も求められていない。さらにオバマ大統領をみてもわかるように、当事者もそのような存在になろうとしていないし、アメリカ国民もそのような存在を望んでいない。


アメリカの場合、第二次大戦後から現在に至るまではエリートが国を引っ張ってきた。ハーバードやイエールといったアイビーリーグの名門大学出身者が国を引っ張ってきたし、アイビーリーグというのは、そういった人物を育成するための機関だったのであろう。しかし、リーマンショックで全てが明るみになったというか、結局彼らは国を支えることよりも、自分の利益を優先していたのであって、このエリートシステムは事実上崩壊したのだろう。


それで逆にアメリカに関心がでてきて、ここ数年観察しているのだけど、気になる人物というのは確かに激減した。しかし、一方でアメリカ国民の底力というのはひしひしと感じている。ビジネスとは違うけれど、彼らのフットボールアメリカンフットボール)に対する熱狂ぶりが凄まじい。特にカレッジフットボールは、今ちょうどシーズンだけど、毎週末何十試合というカードが組まれていて、どのスタジアムも10万人を超える観客が詰め寄せている。





カレッジフットボールを観ていて興味深いのは、先進性というのではなく、どこか懐かしい感じがすることだ。ノスタルジーというのではなく、過去から現在に至るまで脈々と続いている営みの力。オールドスタイルが基調になっており、端的に言えば、アメリカンフットボールというスポーツの仕組みも、応援の仕組みも、いわゆるビッグバンドシステムを取っている。ビッグバンドについて過去にブログに書いているので説明しよう。


グレン・ミラー(ビッグバンド)



スウィング・ミュージックという音楽が、一九三〇年代のアメリカにおいて大隆盛を迎えます。大恐慌後の不況を乗り越えたアメリカにおいて、レコードとラジオの力を借りて、大体、現在のポップスと言われてイメージされるような音楽の基本型が、その時期のアメリカにおいて整備されていった。音楽産業的にも、譜面の売り買いや流しみたいな、人間同士が顔を向き合わせて音楽をやり取りするような流通のあり方から、ラジオやレコードといった大量生産・大量消費的なプロダクションに、音楽商業の中心地が移動してゆく。そういった過渡期に相応しい音楽として、スウィング・ミュージックというものがあり、それを演奏するメディアとしての「ビッグバンド」というものが、スタイル的にもイメージ的にもアメリカ市民に大きな影響を与えた、という話があります。ちょっと、とりあえず聴いてみましょう。





はい、こんな感じです。これはグレン・ミラー・オーケストラの演奏で、一九三〇年後半から四〇年代、つまり戦時中に最も流行したバンドの一つです。僕たちが今「スウィング」といった時に考えるイメージを完全に備えている音楽だと思うんですが、ブラスとリードのアンサンブルによって非常に洗練されたハーモニーを鳴らし、しかもそれが軽くバウンスが効いた、まさにアメリカ的なリズムに乗っかっている。綺麗にまとめられた高性能のミュージック・マシーンなわけですが、このビッグバンドのイメージ/組織論っていうものが、アメリ市民社会、および、それを反映したアメリカ軍のあり方に格好のモデルを提出する事になったんです。ビッグバンド=アメリカ国家っていうのは、イタリア系、スペイン系、アングロ・サクソン系といった様々な移民が集まって運営されており、それぞれが得意分野を持っている。各人はその得意とする武器を持ち寄って、バンドだったらソロっていう見せ場でその個性を発揮しながら、しかし、基本的にはそれぞれのポジションをしっかり守って、全体として非常に洗練された、見事に統合された作品=作戦を遂行してゆく・・・っていうね、音楽を成立させている組織論のイメージが、この時期のビッグバンド=スウィング・ミュージックにおいては、本当に驚くべき強さでもって、アメリカ市民の社会生活の理想像を体現していた。この音楽の中に、戦時中のアメリカにおける理想の人間像や社会像がしっかりと刻み込まれていて、この音楽を好んで楽しむ身体を持つって事自体が、イコール、アメリカっていう国の国益に奉仕する社会性を持つ事になるっていうラインできっちり敷かれていたわけなんです。そのように僕は理解しています。音楽っていう娯楽の中に含まれている集団や個人のあり方のイメージっていうものは、馬鹿にならないパワーを持っている。


大谷能生




大谷能生のフランス革命

大谷能生のフランス革命

ビッグバンドに対する大谷能生氏の解説が、アメリカンフットボールというスポーツにもそのまま当てはまる。

アメリカンフットボール



QB,RB,WR,TE,OL / DL,LB,DB,CB,SSといったポジションのアスリートが集まって運営されており、それぞれが足が速かったり、体が大きかったり、肩が強かったり得意分野を持っている。各人はその得意とする武器を持ち寄って、QBだったら全方位的にその個性を発揮しながら、しかし、基本的にはそれぞれのポジションをしっかり守って、全体として非常に洗練された、見事に統合されたチーム=作戦を遂行してゆく

ちなみに強豪校の応援ソング、テーマソングはこんな感じ。





このように、アメリカという国には相性がいいスタイルがふたつある。


アメリカと相性のよいシステム



アメリカ国家・ビジネス →帝国主義植民地主義


アメリカ国民 → ビッグバンド

今のアメリカは国家の力が衰えていて、対して国民はそこそこ元気という状態。今、アメリカから学ぶのであれば、国家の力ではなく国民の力であろう。


それで何が言いたいかというと、今はベンチャー企業であっても、一人の天才の出現に期待するのではなく、個々人の働き、チームの力が重要だということ。その際にビッグバンドスタイルというのはすごく参考になるし、チームのメンバーで共有できるイメージであるということ。


チームのメンバー、それぞれが得意分野を持っている。それぞれが得意な分野で力を発揮して、それをメンバー間で連携し、機能させていく。戦術も考えてチームとして1+1が2ではなく、3にも4にもなるようにする。



よし、このイメージでいこう!



もちろん、歴史的にみれば、このビッグバンドのあとには、チャーリー・パーカーなどのいわゆるバッパーと呼ばれる、とてもとても興味深い人たちが出てくるのだけど、今はそこまで考えなくていい。まずはビッグバンドスタイルを形作っていこう。そして、まず手始めに明朝のカレッジフットボール中継をインターネットラジオで聴こう!

10月7日(金)


ふぅうううー

10月6日(木)


大学時代の友達と久方ぶりに飲む。15年前と今とではなんにも変わっていないという気持ちが強いけれど、ああ、いろいろあったなーって実感。

10月5日(水)


きょうの夜ごはんは、ア・ラ・ポテトでした。

10月4日(火)


寝る。

10月3日(月)


zuzuzu.....

10月2日(


メリもハリも仕事なので、きょうは気分転換に演劇を観に行った。アマヤドリ『月の剥がれる』。構想が壮大で演劇の尺にはまとめきれていない感もあったけど、見応えのある良作だった。いろいろ考えるきっかけを与えてくれたし、俳優の熱量が伝わってきて、これをずっと稽古して作り上げてきたんだって思うと、俺も仕事がんばろって気持ちになった。

10月1日(土)

ひとりMTG








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