2011年4月(その2)




(4月29日)日経新聞発《株式市場改革》を求む!

アメリカの竜巻で被災された方々のご冥福をお祈りします。






引き続き新聞を興味深く読んでいる。



今日はロイヤルウエディングや、野球やサッカーのすばらしい試合があったので、そのことを書きたいのだが、気になる記事が載っていたので、応答したいと思う。



最高裁証券取引法(現・金融商品取引法)違反の罪を問われた堀江貴文ライブドア元社長の上告を棄却、実刑が確定する見通しになった。


後味の悪い裁判だった。堀江被告の罪状は、資本取引とすべき自社株の売却益を利益計上した粉飾決算と、関連会社による企業買収に絡んで虚偽情報を流した偽計取引である。どちらの起訴事実も専門的な技術論に偏し、実刑とのバランスを欠くように見える。


今も人気タレントのように振る舞う本人の言動から反省は感じられず、検察の国策捜査の受難者であるかのような言説も目立つ。閉塞状態にある日本にイノベーションを起こそうとして、変化を拒むエスタブリッシュメントにつぶされた、という筋立てだ。


しかし、ライブドアの証券犯罪の本丸は、裁判では争われなかったところにある。


ニッポン放送株を大量に取得した立会外取引は、TOB(株式公開買い付け)ルールの趣旨に反した脱法行為。度重なる大幅株式分割は、意図的に株式の需給を逼迫させて株価の乱高下を誘う相場操縦。巨額の買収資金を調達したMSCB(価格修正条項付き転換社債)は、引き受け手の証券会社が株価を操作して暴利を得ることを想定した株主への裏切り行為である。


自己利益のためには他者を省みない、市場への背信行為は詐欺か詐欺的行為であり、法や自主規制ルールの変更をもたらした。法が明確に禁止していなければ何をやっても構わないという、自由の意味をはき違えた市場の乱用者がライブドアの素顔だろう。


捜査当局は実質を重視し、不正行為を禁止する包括規定を適用すべきだったのに、重罰を科せる代わりに立件が難しい法の適用を避け、勝訴の確実性が高い形式犯で妥協した。後味の悪さは本筋を外した起訴事実にあり、後世の人は、判例だけでは事件の本質の理解が困難な点にある。


1990年代後半の戦後日本資本主義の崩壊後に訪れた過剰な市場主義は、2008年のリーマン・ショック後の金融資本主義の退潮で、一つの時代を終えつつある。ライブドアは日本資本主義の端境期に咲いたアダ花である。


自国と欧米発の2つの金融危機と、地震津波原発事故の未曽有の複合災害を経験した日本はこれからどう変わるのか。ライブドア事件は、再起を期す日本にとって、風化させてはならない歴史の教訓である。



ライブドア事件を風化させるな」(2011年4月29日日経新聞朝刊掲載)

まず、この記事の後味が悪いのはペンネームで書かれているということ。日経新聞の「大機小機」というコーナーに書かれており、このコーナーは社説並にいつも激しい論調で書かれているのだが、残念ながら毎回ペンネーム。しかも今日は「混沌」、昨日は「無垢」、一昨日は「パピ」というように、拙ブログなみに名前のセンスが悪い。新聞に掲載するのだから反論も受けて立つというスタンスで、実名表記で書いて頂きたい。



そして、この論説を読んで率直に感じるのは、「現況の株式市場が、ライブドア事件ホリエモンをこのように断罪できるような高いモラルを持った人たちによって営まれているのか?」ということ。



ホリエモンのようにあからさまにやったらアウト/こそこそやるのはセーフ」ということなのか?



毎朝日経新聞とにらめっこして「あっ、この会社儲かりそう!」「あっ、株価上がった!下がった!」と一喜一憂している人たちが自己利益以外の一体何を省みて株を買っていると言えるのか?



「○○という会社がAプロジェクトを立ち上げる。このプロジェクトはすばらしい。実現するのに2年、3年かかっても構わない。応援しよう。投資しよう!」と考えて株を買っている人がいったいどれほどいるのか?



風化させてはいけないというライブドア事件以後も、短期の売り逃げのような自己利益以外の何ものでもないテクニックが公然と行われている株式市場っていったい何なのか?



この問題は、ホリエモンに悪を押しつけ追放すれば、市場が浄化されるということではない。ライブドア事件を歴史化するのではなく、株式市場に関わる人たち全てが自らの問題として、根本的に向き合わねばならないことだ。そして「ダメなものはダメ」と自らが変わらねばならない!



日経新聞発《株式市場改革》!



期待してます!!!



(阪根正行)






※この問題については以前じっくり考えました。少々長いですが、ご一読頂ければ幸いです。


現代社会と《ビオ-ポリティクス》




(4月26日)判決理由は「見せしめ」!?

   



  


ホリエモン刑務所へ




残念だ。ホリエモンには昨年『ユリイカ2010年8月号 特集:電子書籍を読む!』の取材でインタビューをさせてもらいました。インタビュー記事を読んでもらうと分かると思いますが、非常に明朗な方でした。こちらが少々的外れな質問をしても素早く意図を汲み取って的確に答えを返してくれましたし、フレンドリーで気さくな方でした。




 司法の強化



新自由主義の強行による困難の最たるものは、既存国民統合の破綻をいかに弥縫するかという課題である。新自由主義は〈開発主義国家〉の利益誘導型政治の再編をはかったが、それに代わる統合の方式を見いだせていない。福祉国家型統合がダメなことははっきりしている。そこで支配階級が模索する統合は、一つはアメリカの新自由主義型統合である。そこで、アメリカシステムが日本の新自由主義国家にもつまみ食い的に導入されている。その一つの柱が、保守二大政党制であったが、もう一つ、アメリカの国民統合を歴史的に支えてきた司法部門の強化をはかったことも、近年の日本の新自由主義改革の特徴である。


アメリカでは、政治支配に対する不満や市民社会内での紛争を「解決」する機関として司法が発達し、国民統合の有力な一手段となってきた。強大な司法部は、国家の政策決定にまで関与し、国家の方向づけを左右したのである。もっとも典型的であったのは、1930年代のローズベルト大統領下の福祉行政や立法に対し、連邦最高裁が、資本の訴えを受けて「契約の自由」の名のもとに違憲裁判を乱発して、それに歯止めをかけようとした例であった。苛立ったローズベルトは、最高裁判事の交代を機に、司法消極主義的判事を次々最高裁に送り込んで、司法部の「妨害」を排除した。逆に、1950年代から60年代にかけて、ウォーレン・コートは司法積極主義によって、アメリカの福祉国家化を促進した。


日本でも戦後改革期に、専制的な政府による権利侵害を救済することを意図して、強い司法部の創設がはかられた。憲法には明示的に裁判所の違憲立法審査権が規定された。しかしながら、戦後日本の〈開発主義国家〉の下では、司法は政治部門の決定を追認する役割に徹し、独自の統合機能を果たしたとはいえない。〈開発主義国家〉には不可欠の強い行政に歯止めをかけることは期待されていなかったのである。また、アメリカのように、司法部が立法や行政に待ったをかけることにより、統治機構全体の「民主性」「公正性」が印象づけられるという役割を期待されたこともなかった。〈開発主義国家〉体制の下で、支配階級は、司法に独自の積極的な統合上の役割を期待する余裕はなく、もっぱら裁判所が行政府の決定に対してくちばしを挟まないことを望み、また司法部も自己をそうした役割に限定することに努めた。


しかし、新自由主義による〈開発主義国家〉体制の再編、とくに自民党利益誘導政治による周辺部の統合機能の縮小は、それに代わる新たな統合や調整機能を必要としたから、新自由主義は、司法部の機能強化をはかったのである。1997年以降進められた司法改革は、こうした司法部の強化を狙ったものであり、官僚司法が認めなかった裁判への市民参加や法律扶助の強化、弁護士の大増員がはかられた。


そうした司法改革と並行して、裁判所の判決でも、積極的に市民社会に介入する事例が増えた。とくに顕著なのが、新自由主義による社会統合の破綻を背景にした凶悪犯罪の増加に対して、厳罰を科すことで、「大衆」の不満に応えようとする「積極的な」判決が増えたことである。また、ハンセン病訴訟に対する2001年5月の熊本地裁の判断などに見られるように、市民の不満をある程度司法が取り上げる傾向も顕著である。


さらに近年のライブドア村上ファンドに対する検察の訴追などは、グローバリゼーションと新自由主義、金融自由化による上層の肥大化と貧困層の増大がもたらす社会の分裂と統合の危機に対して、支配階級内の異端分子を見せしめ的に告発することにより、ある種の不満解消を果そうとする意欲の現われである。





渡辺治「日本の新自由主義」(デヴィッド・ハーヴェイ新自由主義』作品社 所収pp.319-321.)

見せしめですね。



最高裁判決理由「見せしめです!」とはっきり言ったらいいのに。



当時は日興コーディアル証券の事件からも分かる通り、世の中全体がおかしかった。



検察側も「本当は他にも捕まえたい人がたくさんいました。例えば、村上ファンドに出資していた当時の日銀総裁も捕まえたいところでしたが、それをすると国が大変なことになるので、ホリエモンに白羽の矢が立ったという訳です」とか言えばいいのに。




世の中全体がおかしくなったときの軌道修正をいかにするか?




ホリエモンを見せしめにするという判断は妥当だったと当局は思っているでしょうが、これでベンチャービジネスをやろうと考える人は確実に減りました。今回の東京電力にまつわる動きをみていても思います。「大きな会社って安全でいいな。あれだけ致命的なことになっても会社は救われる。給料が少々減っても食いっぱぐれることはない(クビになるのは契約社員など地位の低い人たち)。 他方、ベンチャーで苦労しても、調子に乗ったらホリエモンみたいにパクられるし、やっぱ大きな会社にもぐりこんで無難にやってるほうが絶対いいよ」って。



本当に自由な競争が行われるのであれば、私は新自由主義を支持します。しかし、現実には自由な競争なんてありえません。力のある人はルール自体を操作して益々力をつけていきます。また一部の人だけが確実に保護され、それ以外の人は絶えず危険にさらされます。そういう世の中です。景気も悪くなるはずです。



ともかく、今後もホリエモンには活躍を期待したい。悪い人じゃないし、やっぱり頭いいし、小説書いたり、舞台に立ったり、ロケットビジネスを立ち上げたり、チャレンジ精神旺盛。人を動かし、世の中を動かす、独特の力を持っている人だから。



最後に、『〈建築〉としてのブックガイド』という本に、ホリエモン×ひろゆき『なんかヘンだよね・・・』という本の紹介文を私が書いたので転載します。できれば買って読んでください。お願いします。



  


 ホリエモンひろゆき『なんかヘンだよね・・・』集英社




ライブドア社長のホリエモンと、元2ちゃんねる管理人のひろゆきによる痛快トーク。世間から爪弾きにされた2人だが、本書で展開されている彼らの考えはしごく真っ当である。



  無駄遣いにも、いい無駄遣いと悪い無駄遣いがあって、今は悪い無駄遣いにすごい使われているんだよ。俺は、消費税アップ賛成派なのね。むしろ所得税や住民税のような直接税をゼロに近づけていくべきだと思っているの。なぜなら間接税のほうが取り立てやすいから。消費税は、収入を低く見せている金持ちからも税金を取り立てられるしね。(ホリエモン



  エコ替えも、「車をエコ替え」といって車を買わせようとしているだけで、実際は車を製造するために二酸化炭素を大量に排出しているわけですよ。ウソでモノを売ることのラインの話で、霊感商法までは捕まるけど、背が伸びる機械は捕まらないし、エコ替えも捕まらない。「どこなの範囲は?」(ひろゆき



別に上辺だけのきれい事を言っているようではなく、彼らは常日頃からこのような考え方に沿って行動をしている節がある。彼らのトークを聞くと彼らの全てに共感する訳ではないが、疑うべきは彼らではなく、むしろ社会の多勢なのではないかとつくづく思う。



  世間の常識って、全然論理的なものではなくて、恣意的というか感情とかで動いていたりするんだよね。(ホリエモン



常識とされていることは常に疑ってみるべきだし、逆に決められたルールがあるならばそのルールを勉強して活用すればよい。このような彼らのドライな《思考》が、考えることに慣れていない大勢から嫌悪された結果が、彼らを巡るあの一連の騒動だったとも言える。



  最終的には人対人の信用なんだよね。それは物々交換の時代から一緒なんだよ。(ホリエモン



世で言う「異端児」の発言は最後まで真っ当であり、学ぶべき新たな批判の姿がそこにはある。




(4月22日)東日本大震災復興へのアプローチ(5)

引き続き新聞を興味深く読んでいる。今日もカズがいい文章を書いていたので紹介しよう。


 三浦知良『日本中が変わろう』




バスの窓越しにがれきの世界が広がっている。横浜FCは岩手へ遠征し、大槌町など大震災の爪痕が痛々しい地域を訪ねて回った。僕は戦争を知らないけれど、敗戦で焼け野原と化した街もこうだったのだろうかと思わずにいられない。



あらゆるものがなくなってしまった場所で、なくならずにある「人々の思い」を思う。住み続けてきた土地や家への愛着、親の代からの思い出。身は避難所に置いてはいても、強い思いまでは消えないはず  。そんなことを考えた。



子どもたちと鬼ごっこやボールで一緒に遊ぶ。寝泊まりしている体育館の隅や、自衛隊の装甲車の脇で遊べてはいても、広々としたグラウンドで思う存分に遊ぶのは久しぶりだったんだろう。みんなとても喜んでいた。被災しているはずの現実を、忘れてしまっているような言葉で喜びを表現していた子。「うれしい」「楽しい」。生きていることへの彼らの真っすぐな感情が、僕らの胸を打つ。



盛岡の社会人チームとの試合に1万3千人もの観客。被害の大きな地域からも約400人がバスで来てくれた。親を失った小学生が一瞬でも悲しみを忘れることができたと語ったという。それがたとえつかの間のものだとしても、やれて良かったと思う。「サッカーを見られて楽しかった」。そういう時間を共有できたことが何よりもうれしい。



寝床もなく、段ボールで仕切られた空間で生活する方々がいる。自分が歯を磨くのを我慢し、その水を子どもに与えようとする親がいる。僕らの「当たり前」の生活は、いかに有り難いものであることか。現地を知って帰ってきた今、僕自身がこれからどういう風に生きるべきか、見つめ直さねばとの思いが強くなっている。節電なり何なり、「こちら側」でできることをしようとの自覚が生まれる。あの場から僕らは何かを持ち帰っている。それを自分の息子や友達、横浜や東京の子たちへも伝えていく。震災から離れた場所でも語っていく。それも復興の一歩につながっていくはずなんだ。



僕らは向こうの被災地に「何かをしてあげたい」と考えがちになる。それは大事だ。でも同じくらいに、それ以上に、こちら側の僕たち自身も変わっていかなければと思うんです。



日経新聞2011年4月22日朝刊)

被災地の復興へ向けて、東京にいる僕はどうすべきか? 今までと同じように沢山買い物をして、沢山食べたらいいんだと言われてもピンとこない。



阪神淡路大震災の時もそうだった。震災後、梅田に出たら人々がふつうに飲んだくれていて、三宮に行ったらまだまだ暗く重い空気が漂っていた。これでいいのだろうか?と正直戸惑った。



だから消費税を上げるのは構わない。自分が買い物をしたらそのうちの何%かが被災地の復興のために使われていると思えるなら、まだ買おうという気にもなる。その代わり、税収がいくらあって、それが復興にどのように使われているかを透明化して示して欲しい。その使い方に対して様々な意見も出るだろう。それを受けて政府は修正すべき点は修正し、これで良いと思ったら持論をはっきりと述べて、反対意見を突き返せば良い。




(4月19日)野球の原点

  


   観戦記




(4月18日)野球三昧!



ひちょりラーメンマンが呼んでいる!!





   





そうだハマスタ行こう!










※(注) ひちょりラーメンマンプロ野球選手です。



  












 阪根タイガース日記2010年4月(その1)


 阪根タイガース


 阪根Jr.タイガース